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廃仏毀釈

合寺令の経緯2

上の書から抜粋 明治三年(1870)一月四日  加賀藩は神葬祭許可の布告に関連させて「仏法御取り潰しなどの浮説は事実無根なり」との大参事布告を出す。 明治三年十月、政府は民部省に寺院寮を設置した。これは真宗の嶋地黙雷・大 …

富山藩

 加賀藩の支藩。1639年(寛永16)に加賀藩主前田利常の二男利次が独立し、婦負郡と新川郡の一部計10万石の領地を分与され成立する。 1676年(延宝4)の藩人口は7万4871人(武士7693・郡方5万968・町方と同続 …

合寺合併寺院数の確定

「日本海地域史研究」第12号所収 栗三直隆「富山藩合寺事件 合併寺院数の変遷」より A,東派(大谷派、東本願寺) 本寺三九か寺、寺中(塔頭)二八から九か寺、計六七~八か寺で史料はほぼ一致している。他に合寺直前に廃寺となっ …

富山藩合寺令の性格

北澤俊嶺「明治維新における富山藩合寺事件について」 この論文は、県内で発行される合寺令研究において、「定説」とされていると言えるものだろう。 合寺事件の性格  明治維新期における各地の廃合寺事件を通じて、大体二つの方向が …

合寺令の経過

上の書から抜粋 明治三年(1870)閏十月二十七日、富山藩から領内の寺院に突如、すべての寺院は一派一寺にあらため、ただちに合寺せよ、という合寺令が発せられた。これは翌二十八日中に家具・仏具をとりはらい、指定された場所に合 …