富山藩
加賀藩の支藩。1639年(寛永16)に加賀藩主前田利常の二男利次が独立し、婦負郡と新川郡の一部計10万石の領地を分与され成立する。
1676年(延宝4)の藩人口は7万4871人(武士7693・郡方5万968・町方と同続き1万6210・宗教者ほか833)、1810年(文化7)には、家中など含む領民は9万1245人となっている。
激動する幕末政局の中で、富山藩の藩士の一部も、藩政に積極的に発言を試み、1862年(文久2)には入江民部・林太仲・島田勝摩らは家老山田嘉膳の政治を批判する建白書を本藩に提出したが62年(元治元年)には島田が山田殺害へと暴走してしまった。富山藩も結局、本藩管理の下で、加賀藩同様に幕末政局に主体性を発揮できずに明治維新を迎え、廃藩置県によって消滅した。
北日本新聞社「富山大百科事典」より
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