合寺令の経緯2


上の書から抜粋
明治三年(1870)一月四日
 加賀藩は神葬祭許可の布告に関連させて「仏法御取り潰しなどの浮説は事実無根なり」との大参事布告を出す。
明治三年十月、政府は民部省に寺院寮を設置した。これは真宗の嶋地黙雷・大洲鉄然らの寺院に対する中央機関設置の建白に由来されるといわれているが、それとともに頻発する各藩の合寺政策によってひきおこされた動揺が、地方政治の不安を招いている事実を、中央政府もみすごすことができない段階になったためと考えられる。それまで各藩からの合寺実施伺いに対し、各藩の藩意にまかせていた政府が、次第に慎重な態度を示し始める。「(略)富山藩の廃仏事件が、その態度変更の動機を与えたものであろう。」辻善之助「明治仏教史の問題」
明治三年十二月八日
 東本願寺では全国の末寺および門徒代表を招集し、地方廃寺対策を講じている。
 とくに状況が切迫していた富山藩に対しては、東本願寺派から松本厳護、西本願寺派から佐田介石を派遣し、実情を検分させるとともに藩庁と交渉をおこなわせた。
明治四年三月
 東本願寺門首現如が、富山藩の合寺についての藩内寺院の惨状を実地に見聞してきた松本厳護の添願書とともに嘆願書を提出する。
明治四年五月八日
 太政官は合寺による弊害が大きいから穏当な処置をとるように富山藩に命ずる。
 しかし、いまさら合寺を解除するのは難しいと判断し、二十日、そのままに差し置きたいと弁官に申し出る。富山藩では、これと同時に、合併所であった常楽寺・蓮華寺付近の町に通路を設置し、この道路の両側に一五歩ずつ地引をおこない、各寺院に分け与えようとしたが、合併寺院側は容易に妥協せず、旧地の復帰を主張して抵抗した。
明治四年七月二二日
 廃藩置県が行われ、合寺事件は未解決のまま富山藩は消滅し、この問題は、県が引き継ぐことになった。

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