仏像への銃撃
明治元年3月の神仏分離令を受けて、加賀藩は明治2年3月に、立山権現管下の芦峅寺・岩芦寺の神仏分離に着手していました。立山権現の「権現」の称号を廃して雄山神社と改称を命じ、芦峅寺・岩芦寺の衆徒をすべて僧形から神職に変えさせ、仏事関係の施設や仏像などの取り払いを命じました。これによって芦峅中宮寺では、姥堂や帝釈堂、布橋などが破脚されました。豊かな宗教習俗を形成してきた立山信仰は、政治によって変形させられ、現在に至ります。
富山藩では明治3年10月4日、林太仲が大参事に任ぜられ、兵器鋳造のためとして、桜谷長慶寺にあった大仏の献上を強要し、この賞として閏10月24日に金千匹を下賜しています。この大仏破壊の際には寺院・信徒一同がせめて首だけでも頂けないかと懇願しましたが受けいられず、藩側では仏像をこも包みにして弾丸を撃ち込んで強弱を検査しました。
こうして桜谷大仏は明治の廃仏毀釈により失われました。現在はそれを悼む信者より寄進された大仏頭が本堂内左側に安置されています。
そして富山藩は、同月27日に、合寺令を発します。
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