合寺令事件と松本白華 ー教団の近代化ー(草稿)

 現在修復中の別院本堂裏に、ひっそりと建っている石碑があります。 富山大火、富山大空襲を経て、碑文の半分は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年にここに説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際に石碑が建立されたこと、そして松任本誓寺の住職、松本白華(1838~1927)がこの文章を書いたということが読み取れます。
 明治2年、富山藩合寺令事件が勃発しました。富山藩へ赴き、調査、交渉を行うことを本山から命じられたのが白華でした。多くの寺が打ち壊され、鐘楼・仏具が武器へと鋳潰され、僧侶が還俗を迫られている悲惨なありさまを、白華だけではなく、本願寺派の島地黙雷、大谷派の石川舜台らが目撃しました。仏教は役に立たない空理空論であり、僧侶は門徒の上に胡座をかいてるだけで必要ない。厳しい廃仏毀釈が目の前で実行されていたのです。
 白華は政府、藩、そして本山に対して、次々と調査書や意見書を提出します。例えば明治4年、本山にあてた報告陳情書のなかで、文明開化によって人々の交流は自由であるとされているのに、戒厳令が引かれているような様の富山藩の状況はどういうことなのかと抗議しています。この書はそのまま政府への要望書に添えられて提出されます。白華のめざましい活動は、当初事件を静観していた政府の方針を変えさせる大きな一因となりました。 
 その翌年の明治5年、黙雷、白華、舜台は欧州視察に旅立ちます。まだ事件が解決に向かう途上ですが、「近代化」という機運にどのように対応し、参画していくのかが危急の課題でした。新時代の教団の方向を探る旅でした。
 帰国後、島地黙雷は真宗は近代的宗教であるという自負を持ち、神道国教化を計った大教院からの離脱を促し成功します。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張。合寺令事件から20年後に施行された明治憲法に「信教の自由」を加えることに大きな役割を果たしました。
 石川舜台は、明治・大正期の大谷派宗制改革の中心に立ちます。明治10年に白華を上海別院輪番として派遣するなど、浄土真宗を「世界の真宗」へと変貌させようと試みます。人材養成にも力を注ぎ、南条文雄、清沢満之、井上円了など近代教学の担い手となった人々を育てます。
 両堂再建の翌年(明治29年)、停滞していた宗門改革を図ろうとする清沢満之らによる白川党改革運動が起きます。白華は改革派の嘆願書を提出する総代として名を連ね、いったん下野していた石川舜台が再び改革の中心に立ち、宗議会の設立、寺務体制、財政機構、教学教化の近代化を進めます。舜台は殖産興業の機運にのった事業経営も試み、寺檀制度に頼らない教団運営を試みますが失敗に終わり、失脚します。
 こうして明治期の仏教者たちによるめざましい努力によって真宗教団の近代化は、国家体制の近代化に先行するようなペースで推し進められました。しかし、近代化路線は、真宗教団の独立性・主体性を薄め、天皇制国家体制の確立に追随することでもありました。
 富山藩合寺令事件から百年後、太平洋戦争末期、真宗教団は武器として鋳潰すために、今度は自ら梵鐘、仏具を供出します。多くの僧侶たちが兵士として戦場へ赴き、戦死しました。それは「自らの廃仏毀釈」であったはと言えないでしょうか。再興された富山の寺々も大空襲によって焼き払われました。さまざまな思いが先人たちの心に交錯したことでしょう。
 さて、白華の生涯を調べる中で、安政5年(1857)、19歳のエピソードが目に留まりました。金沢藩で大規模な飢饉や疫病の流行が起こったのです。そのとき「親子兄弟等身寄のない人には寺を開き、粥を与え耕地を開き、小屋を建て、甘藷を栽らせ、引き取り手のない無縁の仏にも手をさしのべられた」とあります。私にはこのお話が、富山藩合寺事件に奔走した白華の原点であったと思えてなりません。石碑の碑文は、抑圧された人々の側に立った白華の姿を、現代に伝えているようです。

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