教団の「近代化」
「真宗史料集成 第12巻」 森龍吉「解題」より抜粋
「教団の近代化」はまず体制と組織の近代化からはじまった。その問題意識は廃仏毀釈の受難をいかに押し返し克服するかという過程に胚胎する。仏教の主体性を回復するためにはさきに述べたように近世後期以来高まってきた廃仏論が指摘する寺院および僧侶の堕落と非生産性からいかに脱却するかという問題があった。その一つの方向としてはすでにのべたように戒律の復興を志し、「方外」の民であることを宣言して清規を回復する道がある。そしてもう一つは進んで世俗化に対応し、世俗世界における近代化の論理を体制と組織のなかに吸収して、新しい体制と組織を創出することである。ただし後者には道念の希薄化を増す危険性がある。その点を考慮すれば、すでのその前近代的温床となっていた寺檀制度を解体して、信仰の連帯による教団の再編成を指向せねばならない。それは困難でもあり、教団と寺院組織の経済的基盤を深刻に動揺させる危険がともなう方策である。しかし、ともあれこの二つの方向のいずれかを選びとらねばならぬ関頭に明治初期の仏教界は立たされた。この選択にあたって、仏教教団は自由に選びとれる事情ではなかった。そこには政治的・社会的状況というものがある。明治維新以来の政治的課題は絶対主義的統一国家の建設にあった。一切の国土と人民が、王土であり王臣でなければならぬという国家政策からいえば、「方外の民」はゆるされず、僧侶もまた俗性を強いられた。「釈」とか「禿」の字を持って抵抗した事例はいくつかあるにしても、それは一般化しえなかった。このような状況と課題のなかでとりうる道は次第に後者にしぼられ、その路線のうえで新しい展望を求めるほかはなかった。(略)
まず、(真宗)教団の近代化は、政教分離の近代的原則を主張することで神道国教化の直接支配をくいとめ、国家憲法に該当する教団宗法を制定し、地方行政制度を確立し、そのうえで宗議会を開設するという方向で進められた。その結果、明治十年代においては国家体制の近代化に先行する姿勢をしめした。その後この近代化路線は絶対主義国家体制の確立にともないそれに追随し、規制される。政教分離の原則主張は後退し、国家神道の支配が、「神道非宗教」という詭弁政策によっておおいかぶされ同二十年代となると固定化されてくる。その転化を起点として、日本の資本主義的発展の路線を追いかけるように、布教活動を拡げつつ、工場・刑務所・軍隊および移民地・植民地に進出し、国家権力との関係を深めつつ、「公認宗教」の雄となる方向へ進展するのである。ここに教団の近代化路線は独立的・主体的意味を喪失し、「真俗二諦」と、「王法為本」の宗是の新しい確立が強調され、門徒民衆の生活の物心両面にわたる要求をうけとめる機能をうしなっていった。明治二十年代の後半から「宗教改革」と「教団改革」の自覚や運動が、在野的立場から一部僧俗の間に台頭しはじめるのはそのためである。先進性はこの段階から体制の指導者よりも在野の批判者に転移するとみなければならない。
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