松本白華の生涯
天保9年(1838)誕生
天保13年(1842)石川舜台生まれる
嘉永2年(1849 11歳)得度
嘉永3年(1850 12歳)京都で漢学と書を学び 後に大阪で広瀬旭荘の門に入る。
安政3年(1856 18歳)本誓寺住職となる
安政4年(1857 19歳)香山院龍温に宗学を学ぶ。
安政5年~6年(20~21歳) 金沢でコレラ流行、米不作により価格暴騰、洪水、大火。
「松任一円の門徒衆は申すに及ばず、石川郡能美郡までも救出の手をさしのべられたのであります。すなわち親子兄弟等の身寄りのない人たちには寺を開き、粥を与え荒地を開き、小屋を建て、甘藷を栽らせ、引き取り手の無い無縁の仏にも手をさしのべられたのであります。」
明治2年(1869 31歳)明治政府の命により異宗教諭(キリシタンは金沢藩に525名、大聖寺藩に83名)となる。石川舜台も同様。この頃自坊に「遥及社」を開設し子弟の教育に務める。
明治3年(1870 32歳)富山合寺事件。12月8日、富山藩へ本山から派遣され実情検分。
明治4年(1871 33歳) 石川舜台第一次宗政時代(~1878)
2月 新門主に要点五ヶ条の報告陳情書を提出。
強制合寺の不都合を実情を上げて論し、布令を批判。
(異宗教諭の職を辞して東京へ。長三州の香草吟社に入る。
宗名事件に奔走。)
3月 新門主、白華より報告の五要点を詳細に挙げて政府の善処を願い出る。
4月 寺院寮に宛て、当初の布令以下一連の始終の経過を一々布令を挙げ陳述。
合寺令の不当をなじる。
明治5年(1872 34歳)教部省に出仕。新門主(現如)に随従し、石川舜台、成島柳北らと欧州への宗教事情視察に赴く。この間およそ一年間を「白華航海録」に記す。
明治6年(1872 35歳)執事補に就任。
明治10年(1877 39歳)外国布教掛 上海別院輪番となる。
明治12年(1879 41歳)輪番職を辞して帰国。子弟の薫育に当たる。
明治17年(1884 46歳)富山の説教所が別院に昇格。
白華の手による碑が、損壊しつつも、今も残っている。
明治30年(1897 59歳)寺務改革派の総代として嘆願書を提出する。
石川舜台第二次宗政時代(~1902)
明治43年(1910 72歳)本山議制局議長に就任。
大正15年(1926 89歳)没す。
「白華僧正の一生を振り返ってみますと、真に多事多岐多才のお方でありました。現在松任を中心に多くの書や画が残されているのを見、考え合わせますと、誰にでも気軽に仏法を教え諭され、請われれば、すぐに筆をとられたようです。昭和四十七年秋、文化の日に松任福祉センターにおいて、松任市郷土史研究会が主催して白華僧正の遺芳展を開きましたときには、近郷近在より見学者が引きもきらず、盛大を極め、文化の日の白眉であったことを思いましても、いかに秀れた傑僧であったかがわかるような気がします。」(松任本誓寺史)
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