嶋地黙雷の「近代」
明治五年一月、嶋地は、連枝沢融とともに外遊に出発した。財政の不如意と文明開化への無理解から、宗内には外遊反対の声が強かったが、この時期に両本願寺ともに新時代への対応を急いで外遊が断行され、欧米先進国の宗教事情と近代的な仏教学の発展とから、重要な教訓を得ることになった。
嶋地は、英仏での見聞から強い印象を受けたが、その一つは、宗教が政治権力から毅然として独立していることにあった。もちろん、この独自性の背景には、長い宗教闘争の歴史があったのだが、こうした宗教のあり方に比べれば、大教院のもとでの仏教側の態度は、卑屈この上もないものと考えるほかなかった。こうして嶋地は、大洲鉄然ら故国の盟友にあてて、「宗旨には抗抵がなくては行われず、仏の大悲を学ぶ者は官人の鼻息を伺う様ではすまぬ」、「かようなる時勢になりながら政府に諛して教えを守などとは、算用のけた違に候」と書き送った。
だが、こうした態度は、「真宗のほか、日本にて宗旨らしきものはなし。一神教でなければ世界ではものはいえず。幸いに真宗は一仏なり」という真宗の近代性への確信と結びついていた。これは、嶋地が外遊によって得たもう一つの重要な成果で、日本ではキリスト教に対比しうるほどに近代的なのは、一神教的な真宗だけであり、開帳・祈祷・卜占を仕事にしている真言宗や法華宗は、「叩きつぶす工夫が肝要」、禅宗・天台宗は学問で宗教とはいえず、八百万の神々を信ずるという神道にいたっては、宗教学的にはもっとも未発達な原始的宗教にすぎない、と嶋地は論じた。さらに嶋地は、ヨーロッパでは無頼の者をさして「オーム・サン・ルリジョン」、「無宗旨の人」というとのべ、ヨーロッパ文明の基礎に人心をふかくとらえている宗教が存在していることを洞察した。そして、こうした見地から、日本の近代化に真宗が果たすべき役割についての、昂揚してやまぬ信念が生まれてくるのであった。
(略)
こうした嶋地の立場は、真宗の近代性への確信と、ナショナリストとしての情熱と、近代文明への希求とを、結びつけたものだった。もっとも近代的な宗教として真宗こそが、日本の近代化という課題にもっともよく応えうるのであり、そのことを西欧体験をへて確信した嶋地たちの使命は、きわめて大きいのであった。こうした確信と使命感の大きさとが、嶋地たちの大胆で手きびしい発言と情熱的な活動を支えていた。
(略)
しかし、嶋地たちが、仏教とりわけ真宗をもっとも近代的な宗教だとし、それをもってまだ愚昧なままに眠っている人々を教導しなければならないとしたとき、それは、現実の真宗信仰とはまったくべつの宗教観念をもちだすことを意味していた。嶋地たちの頭脳のなかの真宗と現実の信仰とのこのズレは、嶋地たちの啓蒙意欲をかきたてたが、しかしそれは、啓蒙家としての独善性をもって現実に臨むことを意味していた。嶋地たちのこの啓蒙家としての独善性には、彼らがきびしく批判した神道家などの国民意識を統合をめざす独善性と、いくらか似たところさえもなくはなかった。それは、近代化していく日本社会に向けられた〝分割〟の、より近代化されたもう一つの様式にほかならなかったからである。
コメントを残す