真宗の独自性


 すでに述べたように、神仏分離政策以下の排仏的な気運のなかでも、東西本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存するところが大きかったし、両本願寺の門末教諭にも期待しなければならなかった。そして、地方で廃仏毀釈が進められても、一貫してそれに抵抗したのは真宗であり、廃仏毀釈の嵐がすぎると、いちはやく寺院を再興させたのも真宗であった。神宮の大麻配布や説教をめぐって、もっともトラブルの大きかったのも真宗であり、大浜騒動や越前一揆のような闘争も、真宗地帯だからこそ発生したものであった。そして、地域でのこうした動向に対応するかのように、大洲鉄然・嶋地黙雷・赤松連城・石川舜台・松本白華など、新時代を代表するあたらしいタイプの僧侶たちが活発に活動するようになってきており、彼らは、西本願寺派の長防グループを中心に新政府の首脳部にもきわめて近い関係にあった。
 教部省と大教院は、こうした僧侶たちを中心にして、仏教側から政府首脳にはたらきかけて設立したもので、常世長胤のような復古派の神道家からすれば、教部省と大教院は、こうした真宗僧の陰謀によって生まれたとしてもよいほどで、それに手をかしたのが福羽美静や宍戸タマキのような長州閥の宗務官僚であった。常世は、教部省や大教院の設立とともに、そこで活動することになった真宗僧のことを憎悪を込めて記し、「教部省は真宗癖なる妖魅の巣窟となりて、他人いらずなり」(『神教組織物語』)と罵倒した。だが、こういう非難も、近代国家にふさわしい宗教のあり方を模索していた一部の僧侶たちからすれば、時代錯誤の教説にとらわれた者たちのさか怨みであったろう。国体神学の信奉者たちが、鬱屈した憤懣の思いにとらえられていたころ、一部の活動的な僧侶たちは、時代の動向をもっと冷静に見きわめ、文明開化や殖産興業の動向にも敏速に対応して、政治的社会的な発言力を強化しつつあった。
 だが、こうした一部の新しいタイプの僧侶たちの活動を、門末のより一般的な状況と切り離して理解してはならないであろう。この時代の真宗の動向と役割を理解するためには、いくつかの次元を区別し、その相互的な関連をとらえる必要があるだろう。
 まず、最も基底には、門徒民衆の宗教生活の独自性があるといえよう。真宗門徒は、大きな仏壇を家毎にそなえ、在家での説教や夜間の法談をおこない、神祇不拝の態度をとるものも多かった。近世の仏教は、葬儀と年忌法要の仏教として一般化していったのに、真宗では死者供養が簡略化される傾向があり、仏前に位牌を安置しない場合もあった。現在でも墓をつくらず、また神棚を祀らない地域があることが報告されているが、こうした性格は、明治初年まではいっそう顕著だったと思われる。要するに、真宗では、民衆の宗教生活にかなり発展した独自性があり、日常生活の全体がこうした宗教生活を軸に編成されているという点で、他の宗派とは区別されるのであり、そのゆえに、神仏分離以下の国家の宗教政策との葛藤も、いっそうきびしいものにならざるをえなかったのである。
 こうした門徒民衆の宗教生活を基盤にして、門末の寺院が存在しているのだが、これら寺院は、寺領・寺田などをもたずに門徒の布施に依存していること、真宗僧の妻帯生活にともなって、各寺院は特定の家によって相続され、地域の名望家としての地位を培ってきたこと、真宗の宗教活動の独自性の具体的内実として、法談・説教など、日常的な宗教活動を他の宗派よりはるかにかっぱつにおこなってきたこと、などの特色をもっていた。そして、こうした事情のため、廃仏毀釈がはじまると、これら末寺僧こそが地域を代表して護法のために奮闘することになった。それは、地域社会で要請された行為でもあったし、みずからの存在価値への問いかけでもあったろう。廃仏毀釈がきびしくなされた真宗地帯では、佐渡、富山藩・松本藩・大浜など、真宗末寺僧の必死の活動がなされている。彼らの活動様式の中心は、窮状を本山に訴えて本山から朝廷に陳情してもらうなどという微温的なものであったが、しかし、こうした様式の範囲のなかでは、彼らはきわめてねばりづよく、不屈の行動力を持っていた。
 こうした篤信の末寺僧からすれば、蓄髪・俗服で政府に出仕したりする活動的な僧侶たちは、宗義にそむく者のように見え、さらにさきの石丸八郎のばあいのように、そうした僧侶(僧侶出身の宗教官僚)こそが、真宗の信仰を破壊する張本人のように見えるばあいさえもあった。逆に、著名な僧侶たちからすれば、こうした篤信の僧たちは、時代の転換についての自覚が不足で、「区々たる歎願」(嶋地が富山藩の廃仏毀釈のさいの僧侶の活動を評した言葉)にのみ奔走している視野の狭い人たちのようにうつった。だから、中央で活動する著名な僧侶たちと、これら末寺僧とのあいだには、発想や行動様式のズレと対立もあったのだが、しかし、よりひろい視野から見れば、後者の活動をふまえて前者の活動もあったわけで、さらにいっそう基底部には、門徒大衆の独自の信仰生活があったのである。
 教部省の設置から「信教の自由」論の展開、そして、真宗の大教院離脱にいたる過程は、現象的に見れば、嶋地を先頭とする僧侶たちの大胆な論陣と政府首脳へのはたらきかけによって可能になったものであった。しかし、よりひろい歴史的な視野からすれば、佐渡、松本藩、富山藩などでの廃寺廃仏への粘り強い抵抗や、大浜騒動、越前一揆のような闘争などにおいてしめされた真宗信仰の固有性や強靭さこそが、限定づきにしろ、「信教の自由」への道をきり拓いた深部の力であった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です