別院建立の経緯
越中は真宗王国であり、真宗寺院が多く、富山町の形成にも宗教が大きく影響していた。明治三年に合寺令・廃仏毀釈という仏教弾圧があったが、とりわけ富山では激しく、古寺町(現・梅沢町)などでは多数の寺院が破壊され、仏像・仏具も鋳つぶされた。翌年、この命令は修正されたが、富山町民はこうした弾圧に屈せず、寺院再建の気風は盛り上がっていた。
(略)大谷派(お東)の説教所は明治13年に総曲輪に移転し、15年には本堂・庫裏が新築されたが、こちらも別院昇格を願い、門徒総代中田清兵衛さん、牧野平五郎さん、阿部初太郎さんらが本山に熱心に働きかけていた。
両派門徒の運動が功を奏し、明治17年、ようやく本願寺大谷光尊大僧正と大谷派光勝大教生から富山県令国重正文へ別院昇格の願いが出され、認可された。この願書には、埋め立て費用は、婦負・上新川・下新川の本願寺門徒32000戸と大谷派門徒25000戸が一戸あたり50銭の一般寄付をおこない、残りは有力者が寄付することになっていた。こうして大手前の濠は坪20銭から30銭で払い下げられ、明治19年6月から10月まで農閑期を利用して、真宗両派の門徒により工事が始まった。男性は手ぬぐいをほうり冠りして半裸体、女性は菅傘に手甲キャハンで、神通川の土砂をお堀まで運ぶ「砂持ち奉仕」が行われた。この労役に加わった門徒数は延べ7000人以上といわれる。両別院の仮本堂は明治21年11月完成、その後何度か大火に見舞われたが、その度に門徒衆の奉仕は繰り返された。
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