安心立命の世界
浄土に帰するということも、念仏の信心をとおしてはじめてふれ得ることであって、つまるところ、われわれにとっては浄土とは信心の問題なのである。
念仏往生の教えを聞くことによって、安んじ得る世界を見出し、そこに自ら安んずるということが、浄土真宗の門徒であるという事になるのである。
穢土も、浄土も自覚の問題である。
浄土ということは、穢土に対してのことで、教理ではない。人間の心のそこに根ざすもので、今日いう人間の祈りである。
後生とは、後の生ということとともに最後の生ということでもある。衆生が最後に人間の形をとったということである。そこに、一切衆生の問題は私一人において解決すべき責任が生まれ、仏道ということが問題となるのである。およを人間が生きているということには精神があるのである。その精神を祈りといい、また菩提心というのである。
菩提心こそ、人間の本当の故郷である。そこによって浄土を感じ、穢土を感ずるのである。浄土とは故郷ということである。
(故郷とは)ただ見出すより外にないところであり、また何としても見出さなければならない本来の世界であって、そこに帰るまでは本当の安心は得られないのである。だから、浄土は安心の帰着点なのである。
(浄土門)門とは信心であり、それは穢土にあるものであって、しかも浄土に通ずるところである。
門というのは自覚の象徴である。
浄土と門とは別のものではない。門に至れば浄土にふれたのである。すなわち、浄土の門は内外を区別して、我々が常にその外にいることを知らしめる。
すなわち、たすかることなしにたすかるのである。穢土を離れずに浄土にふれるのである。これはただ信心によってのみ可能なのである。
浄土とは安心の問題である。
自覚なき浄土は実体化されたものであり、死後のことにならねばならないわけで、それが化土である。つまり、真仮を明らかにすることによって、はじめて安心を得られるのである。
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