玉永寺祠堂経法要 一日目
12日 法要の後、御遠忌団体参拝に参加されたお二人から感話をいただきました。
法話は平野正樹氏 ご自分の闘病生活から、念仏に生きる意味をお話くださいました。
以下に法話メモを掲載します。
ガンの宣告を受けた時、それまでの仏法は役に立たなかった。知識にしていた。学び直さなければならない。仏法を生きなくてはならないと思った。往生は生きている時の問題。本当の仏法は人を介して現れる。出会い。先生に出会った。しかし不養生に陥る。膵臓に腫瘍。
闘病生活が始まる。検査失敗。鬱陶しかった。助かりたければ手術をしなさいと言われる。闘病。安田理深「天命にやすんじて人事を尽くす。」という言葉が響いた。ガンは氷山の一角。三度目の宣告に、度胸がついた。私を教えが生きている。全てを失っても仏法が残る。全てと別れても仏とともにある。人には支えがいる。それが私には念仏。
人は何かを当てにして生きている。それは大事。しかしいつかは別れなくては。我々が一番当てにしているのは、我が身。健康。しかし、いつかはころぶ。立ち上がる力は仏法である。
お念仏して救われたという人はなかなかいない。それまでお念仏して救われるとは安らかに死ねるのだと思っていた。そうではなかった。苦しみのなかを平然と生きることだった。生きる姿勢が問われている。自分の人生は無駄と思っている人はいない。人間は無意味なことはできない。プロメテウスの刑罰のように。
自分の命に意味、価値を見出す。本当の意味で命を与えてくれるもの。たった一つあればいい。善導、経は鏡のごとし。教えを通じて、自分を知る。他人の事はよく見える。自分の事は棚上げ。気付かせてくれるのが鏡。私たちの心のなかに常に津波が起きている。争いはなぜ起こるか。両者が正しいと思うからである。
それが苦しみとなる。あの人のせいだと。しかし、原因は自分の心にある。阿闍世も提婆も自分の事だと分からなければ真宗は分からない。聖人は比叡山を降りて下へ下へと降りてそこに光明を見出された。下へ行けば明るくなる。闇を照らす光が本願である。
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