第11組共同研修会 第1回

講師 辻俊明氏 会場 カミール 以下は流星の聞書
「帰する」 重い言葉 捨てて帰す 何を捨てて どこに立つのか
やめて別のことをするということではない
だめならこっちというように移り変わるようなことではない
捨てるというのは 打ち込んでいたからそう言える
捨てるものがはっきりすれば 依って立つものがはっきりする
「捨てる」と「帰する」は対応している
無間地獄は往生要集に「われ今帰する所なし 孤独にして同伴するものなし」とある
精神的な状況が地獄である
戦争で地獄を見てきたとも言われる 地獄はいろいろな場面で言われる
平生の心とは違う 戦争時の人間の心の むき出しになった姿についても言われる
「同伴するものなし」心を許し語り合える 生きてきたことを悩み願いを共にする人がだれもいなかった
それが地獄 私たちはそれを痛みとして語ることさえ忘れている?
「本願に帰す」というのは 個人的な体験というより 共に歩んでいける道があったということ
「流転輪廻」 依るところ 帰するところがない それが 私の現実の姿であることがうなずかれる
「疑情」本当のことに触れていないから そのときの教養を振り回す自分
その元になっている我執に目が開かれていない
「真の知識」にあうことによりうなづかれる
「難中の難」出会いが少ないとか 遠いところにある とも受け取られるかもしれないが
いつも会っていても その人にあえていない
自分を問い詰めてくる人は 怖い 足がすくむ
重い言葉 キーワードを言ってくれる 自分を照らす 立ち止まらせる言葉を言ってくれる人
憶念する言葉 響く言葉に出会うことが 人に出会うということ 先生の奴隷になるのではない
私はもっと明るく悩めないかと師に言われたことがある 互いを比べて 悩みを比べてもしょうがないと
悩んでいけるものがみつかったときに 悩みは 軽くならないかもしれないが 引き受けていけるということがある
曽我量深の言葉「悩まされているというのは無自覚である 悩むというのは自覚である」
被害者意識に苦しめられ 私ほど悩みの尽きないものはいないと仏法に逃げ道を求めるということがある 
「千の風に乗って」アメリカ原住民の死生観 だが私たちの人生観にはならない
なぐさめ 素朴 なにもかもが一つの命に生きている 素朴な形の死生観 しかし情緒的なところでは終わらない
自分はどこへいくのかという感情があるということは踏まえておいて
そこから 私はどこへ行くのか 私はどこへ行きたいのか
他人事ではない そこが仏教 あなたは腹の中に何を持っているのか
それが分かれば どこへ行くか分かる そんな綺麗なところへいけるはずがない
「流転輪廻のきわなきは」他人事ではない 自分の心の動きの中にある
「後世を祈る」人間的には深い感情 どこへ行きたいのか 極楽へ行きたい
ならどうしたらいいのか 実際には何を持っているのか
それによって行き先が決まるなら ろくなものしかもっていない
「弥陀をたのめ」とは 悪いことがあっても気にするなということ?
自縄自縛する意識 自力の計らい 自分のおろかさ 至らなさ 煩悩熾盛と知ってしんどくなる
法然と弟子の会話
念仏をしていても心が散る 一心に念仏申せというが どうしたものか
「源空も力及ばず」 それをどうしたらいいのか 本当の念仏にならないのでは
「散れども み名を称すれば 仏の願力に乗じて往生すべし」
人間に生まれたものには散る心がある 散る心をなくしてというのは筋が通らない
散る心のままに念仏を称えよ
法然の放つ光明 はっきりしない悩める人に対して
その心を照らすように明らかにして 念仏を勧める おおらかに 鋭く
散る心のままに もっと大きな世界に開かれていく
機を攻めるだけでは 自縄自縛
状況も根性も変わらないが 自力の世界が破られる
どうにもならない自分が見えてくる それを「自力のはからい」と言う
この因縁の世界は 思いを超えている
横超 本願を憶念して自力の心を離れる

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