浄土真宗青年僧侶連絡協議会第21回全国大会in高岡
19日 雨晴温泉「磯はなび」にて KNBニュース(動画あり)
開会式挨拶 飛鳥寛静氏
村上春樹「エルサレム賞」授賞式講演から
「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」
この言葉を引用して挨拶されたのが印象的でした
ハンセン病問題基礎講座
スタッフによるパワーポイントをつかってのプレゼンテーションです
日本のハンセン病政策の特殊性 真宗教団とハンセン病問題の関連について
簡潔に適切に分かりやすくまとめられており 非常に完成度が高いと思いました
阿部智子さんの講演
以下は聞書です 文責は流星に
私は昭和31年に壁の中に入れられた 人生を歩き出す前に らい予防法の隔離の壁に道は閉ざされ 53年という年月がたってしまった
差別偏見に家族ともどもさらされ 生きてきた 恐れる必要のない病気なのに 偏見を増幅させた強制隔離は国による犯罪ではなかったか 人権はだれもがもっている権利だがつねに関心を持ち意識していないと壊れていく
基本的人権というものを どこかで意識しているか 隔離されて仕方ないと 家族のために生きながら死んだような生活をしてきた 家族の平和だけは守らなければならないと考えてきた
人権は考えたことがなかった 差別されて当然だと考えてきた
母から学校へいかなくてもよいと言われた 「あなたは体が丈夫じゃないから」と先生に言ってきたと 私は母に言われるままに 人に顔を見せないように隠れる 毎日一緒に遊んだ友達がこなくなった それきり会っていない みな私のことを承知だったと思う
母が理解できないことを言う 仏様を信心しなさい 六年生の私に拝めと 身内の死によって 死ぬことはこういうことだと知ったが 信心なんて分からないに 自分からということはなかった 仏様を拝んでお経を拝んでいれば病気が治ると言われた なんの病気がわからないのに 朝晩拝んだ 治らない さまざまな薬を飲ませられる 苦しい いやだ しかし 母の苦しさ 心中を察して飲む 焼いた仏像の炭も飲んだ 3年9ヶ月引きこもらされた 楽しいことがない 本や新聞ぐらい 自分ひとりが自分の遊び相手
12歳のときに学校を休み 13歳のとき なんの病気かと理解し始めた 「らい」についての小説 白い布を巻いて奥の部屋に暮らす こういうことなのか 人に会っていはいけない この病気だと確信したときに 家族を救うためには死ぬしかない 死に方を模索する 理想の死に方がない 田舎で自宅で死ねば兄や姉の将来に災いとなるから 死ぬわけにもいかない 専門的な治療は療養所でないと受けられない 苦しいこと悲しいことを家族に言えない 死を覚悟したのだから 死ぬことにしようと療養所へ行く決心をした
棺に入って出て行くようなつもりだった 家にもう帰ることはない 16歳の春 ふるさとの景色を見て 花を押し花にして この世からあの世へ行くつもりで 自分を後押しした 母が信心しなさいと 結界で入れなくなる 父を探しに高野山へ入らせるという物語に基づく小さな仏像を持たせてくれた 母も療養所に行かせるというのは この世で会えないという思いがあった 寂しいときは仏を拝め 支度をしてくれた そのとき母の顔が膨れ上がった 天を仰いで 腹のそこから叫んだ のどを切り裂くようにして なにが起こったか 苦しい悲しい思い胸に 声となって出ない 私こそが泣きたい ふるさとを離れていく 泣くわけにはいかない 母は園まで付き添ってくれた 厚い壁の中からもう出られない 現実として迫ってきた 二度と家には帰れない
名前はどうしますかと聞かれた 変えて園名にするのか ここで死んだら解剖していいかと聞かれ ここで死ぬのだと思った 16歳 ここで死ぬのだ 病気を治す療養所ではない 一日目 仮収容所に入る そこからここが療養所ではなくて 隔離の収容所であると身にしみて覚えていく
一日27円で働く 24時間介護 医者がすべき仕事を入所者がする 責任のある仕事も 知覚麻痺で冷たいのは分かるが 熱さ 傷は分からない ばい菌が入り 進行が早い 乱暴な処置をされる 手足の損傷が病気そのものと誤解される
休ませて 栄養を与えれば治るととも言ったし 大変な病気だから 入所勧告して手錠しても入れるべきとも言った 園長は二通りのことを言った 私が死んで園長に会えたら どちらが本当なのか聞いてみたい
別の会合があり 私はここまでしか拝聴できませんでした
「父を探しに高野山へ入らせるという物語」というのは謡曲「苅萱」にもなっている
石童丸物語のことでしょう
上の写真では そのときからずっと持っておられる仏像を聴衆に見せておられます
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