「ハンセン病に学ぶつどい」

昨日実行委員会が開かれ、以下のように企画の大枠が決定しました。
名称 「ハンセン病に学ぶつどい」
期日 2008年4月18日(金)
主催 「ハンセン病に学ぶつどい」実行委員会
    大谷派ハンセン病問題に関する懇談会
後援 真宗大谷派富山教区解放運動協議会
    ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山
会場 東別院本堂
講師 金泰九(キム・テグ)氏 
   2002年6月、富山での勝訴一周年記念シンポジウムにパネリストとして出席
  「私がもし(療養所を)出るんだったら、多くの人の連帯の中で生きたい」
1926年 10月  韓国慶尚南道陜川で生まれる。
1938年 1月  小学校を終え日本定住の父の下に来日。
1944年 3月  旧日本陸軍兵器学校入校。
1945年 9月  兵器学校卒業直前に日本敗戦により復員。
1947年 4月  大阪市立商科大学(現大阪市大)に入学
1949年 3月  ハンセン病告知により大学中退。
1952年 1月  強制収容により長島愛生園に入所される。
1999年 6月 「らい予防法違憲國賠訴訟」原告に加わる。
私の一言
 日本に来て69年、其の内55年間を国立療養所長島愛生園で暮らして来ましたし、いまも暮らしています。不運にも、夢多き青春時代にハンセン病になり無惨にも半世紀を越える間、隔離された療養生活を余儀なくされました。プロミンという特効薬が出現(日本では1947年)し、ハンセン病も完治する時代になりましたが日本に於けるハンセン病政策は、隔離法に基づくものでしかありませんでした。でも漸く、国は法の不当性に気付いてか1996年3月らい予防法は廃止されました。
 でも、そのとき私は70歳、社会復帰するには歳をとり過ぎていました。もっと早く法の廃止があったならその後の私の生き方は今とは違ったものであったろうと思います。
 法廃止の提案説明に先立って、ときの厚生大臣であった菅直人さんが国会で「予防法が存在していたために患者さん、そして家族のみなさんに多大なるご迷惑をおかけして申し訳ない」というような陳謝はしましたが、予防法の誤りに対する陳謝の言葉はありませんでした。もし、あのとき大臣が予防法の誤りを認め謝罪がなされていたなら、その後の「らい予防法違憲國賠訴訟」は起こらなかったのではなかったか、と私は思います。
 法廃止2年後の1998年7月熊本、鹿児島在のハンセン病元患者13名が熊本地裁に、予防法は憲法に違反したものだとして提訴しました。そして全国の在園療友の中からも原告が続出し私も1999年6月に原告に加わりました。忘れもしませんが2001年5月11日熊本地裁に於いて原告全面勝訴の判決が下されました。それからご存知の通り国は控訴を断念しましたので熊本地裁の一審判決は確定しました。そして、国は予防法の誤りを認め患者に謝罪しました。この事によって予防法により失われていた私たちの名誉回復、尊厳回復が幾分なされ得たと私は思います。また、ハンセン病になったために、そして長く囲われた生活のために持つ自己嫌悪や劣等意識から漸く私は解放されました。どんな状況の中にあっても自らを解放して生きられる社会こそ良い社会だと思います。
内容
・富山での里帰りの現状
・ハンセン病基本法と療養所将来構想問題
・ソロクト、台湾など旧植民地の補償問題
日程
  午後2時    開会
     2時15分 講演
     3時30分 パネルディスカッション・フリートーク
     5時    閉会
会費 500円
○富山出身のMさんとの交渉は12月末まで 音声だけの参加などの方法も探る
 不参加の場合は、音声、文章でのメッセージを求める
○Mさん参加の場合、歳入不足になるため解放運動協議会員からカンパを募る
○パネルディスカッションにはハンセン懇委員から一名参加
○プロジェクターの活用も考える

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