育成員研修会
17日から19日まで研修道場で行われました。
講師は高田教区の井上円さん。
高田での行われている御流罪法要の熱気を京都まで運んでくださいました。
以下の太字は講義ノートの抜粋です。文責は私にあります。
三日間、さまざまな議論を参加者やスタッフと交わしてきました。
最終日、閉会式、やれやれと息をついておりましたら、参務挨拶が「『主上臣下、法に背き』という言葉について学んだと思うが、法難は聖人の生涯の一部に過ぎない。」からはじまり、愕然としました。
「「真宗聖典」の教行信証は何ページから始まっているかが言えなくては僧侶と胸を張って言えない」。
「浄土宗の人は愚者になりて往生す」をテーマとした今回の講義は、いったいなんだったんでしょう。
参務挨拶と研修内容が噛み合わない事は、修練などで何度も経験してきました。それでも今回はかなりガックリしました。社会運動する僧侶は寺をないがしろにし、 自分自身を見失っているという趣旨のこともおっしゃったことでした。
以上、研修会参加についての感想でした。
高田教区の「御流罪法要」について。なぜ御流罪法要を大事にするのか。昭和31年に前回行われた。御流罪の地。親鸞の亡くなった日を機縁とする法要を大切にしてきた。聖人御自身が大事にした日。この日は忘れてもらっては困る。
教行信証の最後の文章。後序ではなく「流通附属分」と読みたい。
承元の法難。死罪流罪。赦免。法然の死。時間が逆転し、29歳、33歳で終わる。この出来事は念仏を大事にする人たちには忘れないでほしい。それが流通附属分の持つ意味。だからこの法要を一教区の事業と位置づけることはできない。それに多くの人が賛同してくれた。教行信証流通附属分を大事に思っている人は多いことが分かった。
御流罪は古い言葉。浄土宗、日蓮宗でも、流罪にあわれたところで使われていた。江戸時代の講本にもある。何か悪いことをして流されたのではないとする、門弟の気持ち。
第八章。大悲に生きる。法語はご消息と歎異抄が中心。
赦免 流通附属分 「予はそのひとりなり」 そのいちなり ひとつなり
なぜ許されたのか。遠流は死罪に次ぐ重い罪。許された理由は、法然の体調が悪かったから。法然を流罪にしたまま亡くなっては朝廷が困る。西方指南鈔。後白河上皇や九条兼実が心酔。法然は幅広い層に影響。朝廷は法然を処罰するかどうかを検討した。弟子が悪いのだから師匠に罪科を科する事はよいのか検討された。法然は甘んじて受けた。
流罪地は四国の土佐であったが、讃岐に変更となる。九条兼実の力。家臣が国司を務めていた。九条は4月5日に亡くなる。
三段階の赦免のされ方。まず讃岐に変更。12月8日、讃岐から摂津の国に変更。勝尾寺。口伝鈔によれば親鸞が教信沙弥を探した寺。5年ほどたって80歳になろうとするとき老いが加わってきた。老耄。西方指南鈔にでてくる。11月17日に勅免。法然に流罪のまま亡くなられたら困る。戒律を守り、智慧のある有名人。タタリがあるのではないかということを怖がった。嫌悪した。それで11月に勅免。同座したものも。反省して許したのではない、謝ったので許したのでもない。朝廷側の事情から。
京都に戻り、健康を取り戻すが、1月25日に亡くなる。西方指南鈔。
親鸞の越後時代について検証できる記録はほとんどない。唯一わかっているのは、勅免前に子どもが生まれたこと。明信。平雅行によれば、赦免前に子どもが生まれることをを許す国司は、親鸞に寛容、協力的。流人への対応は現地に任されていた。
親鸞は京都に戻らなかった。恵信尼は越後の豪族。関東へ行く、恵信尼はついていく。
この時代の人の行動としては変わっている。許されたなら普通は京都へ行く。関東へ行くというのは普通の人ではないということをあらわしている。婿取り婚。南北朝から嫁取り。恵信尼がついていくという事は考えられない。もし離縁となると生活する場所を失う。関東に行くことに、よほど大事な使命があった。恵信尼にはそれを信頼する気持ちがあったはず。
なぜ関東へ? こどもづれ。生活の保障があったはず。引き受ける有力者の存在。一緒に行く人がいた。親鸞の名乗りの持つ意味。
聖典400ページ「名之字」。「なのじ」と読んできた。しかし古い御伝鈔では「みょうのじ」と表記されている。「なのじ」では善信なのか親鸞なのか分からない。善信であると思う。親鸞はなぜそれは記さなかったのか。「善信」が罪名として使われたから。聖典398ページの「姓名(しょうみょう)」に対応する。姓は禿の字。名は名の字。
これは後の人への伝言である。私たちがきちんと読まなければ。
「善信」がそのまま罪名に使われた。「ぜんしん」ではなくて、「よしざね」。普通は「よしのぶ」と読むはず。源空は「藤井元彦」。「彦」は男。事件の元の男。
信を大切にしたのが親鸞。善信は大切な名前であった。聖典345ページ。如是の義。 選択集は三部経の確かめに終始している。書写を許され読み込んでいく中で、「綽空」ではこの本は受け止められないと思った。「善信」でなければならない。
その後、なぜ親鸞と名乗ったのか。「善信」を罪名に使われたから。法然が亡くなった。釈尊のような方。本師。天親と曇鸞の仕事、選択集の論を書く。仏滅後の仏弟子が、仏教と相応するのはどうしたらよいか。応答できるのか。それが論、論註の仕事。それをしようとしたのが親鸞という名乗り。三部経の了解に終始している選択集に対して、「親鸞」を名乗ったのは法然の死を契機として。「後序」ではなくて「流通附属分」。論をつくろうとした。京都ではこういう仕事はできない。しかし罪を許されたばかりの人間は書物を見せてもらえない。そういう状況のなかで関東を目指した。
選択集に応える様な論を書きたい。使命感。妻子をともなう。途方もない決意。
選択集の書写を許されたのは少ない。七人。この人がわたしの後をついでくれる。後のことを考えてくれる人ではないかということを見据えて法然は書写させた。亡くなってから版木となった。
法然の「没後起請文」。二か条。親鸞は西方指南鈔にそのうちの一条だけを引いている。載せなかったのは遺産相続の件。
「わたしの没後、弟子たちは、一つの場所に群がってはならない。かならず争いごとが起こる。」親鸞が関東へ行く理由の一つか。
「追善供養のためになにもするな。念仏だけにせよ。」しかし葬儀は天台的なものになった。
「浄土宗の人は愚者になりて往生す」
聖典603ページ。88歳。与えられた姓名は「藤井善信」。なぜ「藤井」なのか。前例主義。30年前の天台座主、明雲が後白河上皇によって流罪にあう。罪名「藤井松枝」。
しかし親鸞は「禿」を名乗る。愚禿。愚禿釈。姓は個人を示すものではない。自分だけの姓としたのではない。類。共通の姓。
禿は破戒者。その内容が愚。仏弟子が破戒を生きている。無戒名字の比丘。戒律を守ることが僧の基本。しかし、結婚している人はいた。聖覚、隆寛。妻帯は許された。しかし、建前としては戒律。親鸞は事実に戻して、破戒を生活の形態とする。破戒せずに生きていけない人と共に生きる。
供養されたものは食べていいのか? 現実の生活と矛盾する。人間として守れない。だから無戒名字の比丘を指針として行く。現実に即して。いなかのひとびと。そうした人々と共に生きる。それが愚禿。われら。
「一枚起請文」。亡くなる二日前の文章。浄土門の修行は愚痴に帰る。念仏一つ。
知者の法。「さかさかしきこと」。賢賢しい。念仏一つに定まって、念仏を生きる。
「往生必定すべし」。印可。「ものをもおぼえぬ」、記憶は文字を知らないとできない。読み書きが基本。念仏一つに定まった人たち。
「愚」。嘆徳文。愚禿鈔。聖典423の「賢者」は法然のこと。
いなかの人々と同じく愚禿の生活を送ろう。
ほほえみを通して、愚痴であることを忘れることが念仏から離れること。自分の中の愚かさ。ねんぶつひとつと定まること。愚かな身であるという反省と共に、人々と共に生きようとした。我々は、この言葉を指針にしなければと思う。門徒とは違うと、上に立ちたがる。
佐貫の三部経千部読誦について
恵信尼消息 619ページ。「まはさてあらん」 今はそうしよう。建保二年。関東では実朝が法華経、般若心経を読誦させる。京都で雨乞い。年貢減免。
親鸞も依頼されたのではないか。実実しく。衆生利益のため。
善導。355ページ、往生礼讃。「自信教人信 難中転更難 大悲弘普化 真成報仏恩」衆生利益のためというのはおもいあがり。たすけられまいらすべし。歎異抄第二章。助けられなければならないのは私なのだ。共に弥陀によって救われるべき人間。
「弘」。普通の往生礼讃では「伝」。「礼懺儀」では「弘」。親鸞は後者を選んだ。私が弥陀に代わって伝えるのではない。信じる人が信じない人と共に救われる。
寛喜三年 二ねん6月9日、美濃武蔵に雪が降る。8月に京都で霜。大雨。季節が逆転。寛喜の大飢饉。寛喜3年。疫病。幕府が米を放出。餓死者。
人を助けるという思いあがり。助けられるという思いあがり。念仏ひとつを確認。人々と共に生きよう。上に立つこと、助ける立場とは念仏とはかけ離れたものである。偉くなったことではない、そういう縁に会うことができた。
「聖道門修行は智慧を極めて生死を離れ 浄土門の修行は愚痴にかえりて極楽に生まる」
八万四千の光明。八万四千は煩悩。摂取不捨の光明は人間の煩悩をみせることを内容とした光明。阿弥陀の光明は我々の眼で見れるものか。私が教えに触れて自分の煩悩を知った、それが光明が働いている事実。所照の自覚。自分の煩悩を知るということが照らされていることの中身。宇宙空間。遮るものがあって始めて光があることが分かる。
自分の煩悩を知ることに於いて、知らしめる光明に気づく。摂取不捨。
光をみたくてしょうがない。しかし、それは私にこういう煩悩があったのかとうなづけること。それを特別視してしまうとずれていく。煩悩があるとうなずける。自分に受け止めさせるのが摂取不捨の利益。
気づかせてくれたことをいただいていく。異常なことではない。ごく自然なこと。煩悩を見つめさせてくれるものに出会う。
聖典の言葉をちゃんと読んでいるということがこれまでなされていなかった。「藤井善信」。それが悪い意味を持つことを考えた人はいない。侮辱的意味があると考えたことがない。「名之字」、善信と書かないのはなぜかを確かめた人はいない。書かれたものを読む、拝読の仕方はあるとしても、意味を確かめることができていないと思う。穴ばかり。分かったつもりになっている。私は自分に得心が行くまで知りたい。
学ぶ事はいけないことなのか。こざかしくなるような学び方と事実を事実として受け止める学びは質が違う。
名づけられる。他人の願い、打算、思いが。意味が分からない。こたえきれない。
名乗り。自分で決めた。自分の中に理由がある。名乗ったことがないと分からない。
綽空は法然に付けられた。しかし、善信こそが適している。ところが善信を罪名にされる。屈辱的。
法然亡き後の課題として親鸞を名乗る。愚禿釈の鸞 禿は流罪を契機。
見下された人々が、本願に救われる人々なのだ。
元気を出す。生きて働いた言葉。愚者になりて往生す。
愚者、悪人と侮辱された人々が、そうではないと見直す基点となった。
侮辱された人々が、敬われていることに気づいていく。
「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」
関東だけに限るものではない。浄土宗、吉水の集いも含めて考えるべき。こういう姿勢が念仏するものには大切なのだ。親鸞に於いては、とすると矮小化。聖人だけは一人も持たなかった、他の人はよい、ではない。弟子を作るような広がりはおかしい。諍論が絶えない。念仏というものの教え自体がそういう性格のものなのだ。他の教えは弟子を作る。念仏はその感覚と違う。個人的な性格ではない。
こういう感覚がおかしいということに気づいていく。弟子を作るのではない。念仏を本当に喜ぶことにならない。偉ぶるものがでてくるのは専修念仏ではない。
それを気づかせたのは法然上人。七高僧の問題。そのもとは法然上人の浄土五祖。
先生に出合わなければならないという仏法ばかり。
出会っている人は感激が強すぎる。教えを自分の姿勢にしている人は少ない。
念仏は師を仰ぐ仏道。常に弟子。弟子の道を歩む。
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