正信偈 源信章を終えて
11日、13組若坊守会「華の会」、テキストは正信偈で今回は源信章をお話しました。
善導と法然に挟まれて、どちらかと印象の薄い方だったのですが、親鸞聖人はかなりラディカルに読み込んでいらっしゃると思いました。
「専雑の執心、浅深を判じて、 報化二土、正しく弁立せり。」の内容は、化身土巻の冒頭に往生要集からの抜粋として展開されていますが、その前に「『観経』の定散九品の文これなり。」という御自釈があり、その後には
「しかればそれ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門の中に、第十八の願は「別願の中の別願」なりと顕開したまえり。『観経』の定散諸機は「極重悪人唯称弥陀」と勧励したまえるなり。濁世の道俗、善く自ら己が能を思量せよとなり。知るべし。」
という押さえがあります。
善導は九品のなかで下品下生を重視していると言われますが、実はそれほど明確ではないと思っています。しかし、源信の「専修・雑修」という概念は、念仏にしか救いを見出せない下品下生、極重悪人の行を「専修」とし、それ以外の定散諸機を「雑修」としてバッサリ切り捨てるものです。最下とされてきたものを、最上のものとする、逆転の発想がそこにあります。
「専修」という視点は、化身土巻において第二十願、阿弥陀経の内容を特徴づけるものとして扱われています。「雑修」は観経と関連付けられています。
源信章がおもしろいのは、「専雑の執心、浅深を判じて、 報化二土、正しく弁立せり。」に続けて、「我また、かの摂取の中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり」とあるところです。弥陀の光明の働きが取り上げられているわけですが、それは人間の努力や環境には基づかない救いのあり方を示しています。わたしを根拠としない救い。
「専修」は「私はここまでやった」という自意識に基づいた救いです。そこには大きな落とし穴(退転)があります。たとえば、自己欺瞞であったり、他人を見下し裁いていく意識であったり。
その意味で、「専修」のあとに、光明による救いありかたを述べるというのは、自力から他力への展開となっていると思うのです。いわゆる三願転入です。
三願転入は親鸞独自の考えだといわれますが、往生要集を読み込むことが、ヒントになったのではないかしら。
「我」という言葉が、正信偈のなかで、この章にだけ、出てきます。この章は「といえり」という言葉で押えられています。「我」とは源信僧都のことです。「ひとえに安養に帰して、一切を勧む。」初めて、ひとえに浄土に帰依する態度表明をされた先人として、親鸞は源信を捉えていたのでしょう。
源信章は、とても重要である、ということを思いました。
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