長島愛生園・邑久光明園訪問 一日目
2006年9月5日、「ハンセン病ふるさとネットワーク富山」の有志20名あまりで、まず長島愛生園に向かいました。
かつては「事務本館」として園の運営を指揮していた建物が、宇佐美治さんが集めてこられた資料を展示する歴史館として生まれ変わっていました。長島事件で割れた「恵みの鐘」 の二代目、療養所での生活に使われたさまざまな道具、違憲訴訟のタスキなど興味深い資料が綺麗に陳列されていました。
特別に見せていただいたのですが、上の肖像画は正宗白鳥に近い人物が光田健輔氏を描いたものだそうです。後ろに胎児標本が描かれているのではないかという話があります。(小箱さんの提言を受けて、画像を削除いたしました)
愛生園の納骨堂です。お勤めをさせていただきました。
愛生園の到着時から同行してくださったMさんが、ここでお礼のご挨拶を述べてくださいました。
監房跡。壁のみが出ていて、全体は埋められています。
以前とは違って、説明のプレートがいたるところに設置してありました。
収容桟橋 収容される方々がこの島に上陸された場所です。
収容所(回春寮) 入所されて検査や手続きが行われた建物。
収容所の中の消毒風呂です。
この後、邑久光明園へ移動し、宿泊する「かえで寮」で懇親会を開きました。
この会に、光明園の吉田さんとともに、愛生園からMさんがわざわざ参加してくださいました。
Mさんとはじめてお会いしたのは、国賠訴訟のすぐ後、上市のすし屋さんにて。翌年には「ハンセン病問題ふるさとネットワーク」の歓迎会にも出てくださったのですが、その次の年からは、「ネットワーク」との交流は避けておられました。個人ではお会いしてくださっていたようですが。
懇親会でも色々と話してくださいました。またMさんの手記を読んで、団体との交流を避けられたお気持ちと、こうして再びお会いしてくださった心情の変化が分るような気がしました。
藤野豊代表に「Mさんが私たちにお会いしてくださって、よかったですね。」と申しましたら、「そんなことはない。Mさんのような悲しみに遭わなくても、だれもがそのまま故郷の人々と交流できるようにしなければ。(趣意)」とおっしゃいました。しかり、しかり。。。
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