祠堂経準備など

掃除と荘厳(かざりつけ)の毎日です。
ほとんど裸で雑巾がけして、いい汗かいてます。

先日、ぐっちんさんから電話とメールがきました。元気そうです。
また、大阪へいきたいです。けっこう、本気です。

19日の組同朋会の予習なんかもしてます。テキストは「宗祖親鸞聖人」。
「親鸞は弟子一人も持たず」なんですが、やっぱり河田光夫「歎異抄をよむ」(明石書店)がおもしろい。

親鸞は厳密な教義体系を打ち立てています。しかし、一方では、下層の民衆の意識に入っていって、たえずそうした民衆の意識の中で語りかける組織者、救済者でもあったと思います。理論は常に現実や情念の世界で打ち崩されるものです。そして崩れて、また再構成されなければならないものだと思います。一例をあげますと、親鸞の教義体系では、真実心は阿弥陀仏のものであり、凡夫には真実心はないとします。ところが、(略)「まことの心」すなわち、「真実心」と呼ぶしかないものを、親鸞は、文字を知らない民衆のなかに発見します。こうして教義体系と現実との格闘が始まります。おそらく、そこから、「信心の人は如来とひとしい」という新しい教義が生まれてきたと考えられます。
 親鸞は、自分が築いた思想を、常に厳密に民衆の中に下していくのではなく、たえず民衆の持っている意識や世俗的な信仰の中で展開していったと考えられます。(p215)

 まぁ、上の記事と関係ないけど、本堂の縁側を拭きながらパンタカ兄弟を妄想したね。
 風が吹き込む縁側は、こうして汗水たらしてきれいにしても、またすぐ、真っ黒になってしまう。ある意味、無為なんだけど、こう拭き続けることが人の営みなんだろうな。
 完璧に綺麗にしようなんて思わなくてもいい。でも、汚れ放題にしておくわけにもいかない。
 必要なだけ、やりたいときに、やるのだ。
 雨水を汲んで、雑巾を洗うバケツが、やたら気持ちよかった。

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