共学研修会

講師 教学研究所 T氏。知らない仲ではないが、彼の考え方をはじめて知った。

生涯を学ぶことは親鸞聖人を正解としてしまうおそれがある。得道の人とみるべきであり、聖人は偉大な人ではない。

いま、親鸞がいたらどうするだろうと考えて行動するのはおかしい。そのように考えると、宗祖はわれわれの延長になってしまう。教えの言葉として聞こえた時、宗祖との出会いがある。人間親鸞は自分の価値観を出ない。法語そのものが宗祖である。
正しいとは、自分が間違っているときづくこと。それ以外にない。
学んだものを自分のものにしてしまう。退転。それが悪人。
自分が正しいということを出られない。

仏教は心の教えではない。仏教を聞いて、どういう生き方をするのかを教えてくれるのではない。人と生まれたことが問題なのだ。自分を綺麗にするのではなく、生まれたこと、人であることが問題なのだ。

人であるというのは迷っているということ。迷いを捨てるのは自力のあり方。
迷っていることを知るのが真宗の救い。迷っている事実。道場。迷っているものだから尊い。無条件に救われる。迷っているものを救うのが仏教。

テキスト「宗祖親鸞聖人」が教団問題のさなかに出版された政治的な意図をたどり、テキストにある宗祖の生涯とは離れたところで法語中心のサブテキストを作ったということを話された。

宗祖の生涯、つまり現実社会との関わりを切って法語を学ぶという考え方は、私には受け入れられない。座談会、懇親会でも、討論した。楽しかったが、考え方の違いがはっきりしたことだった。

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