真実信はどこにある?
6日の祠堂経法話は、今作ったレジメのマイナーチェンジでいくとして
8日の華の会、テキストは正信偈で道綽の後半のつもり。
http://blog.livedoor.jp/anan1/archives/2006-05.html#20060511で、予習してたんだが、曇鸞が三不信として書いたこと道綽が三不三信と、ちょいと言い換えたことを、なんでわざわざ正信偈は道綽章でとりあげているのか、いまいちわからん。
そのわりに親鸞は、信巻で論註の三不信の部分は引文しているが、安楽集の三信の部分はどこにも引用していないし
このあと善導の三心釈が引かれて三一問答が続く。道綽の三信はそこで展開されていると考えるのは、、、、むりかなぁ。
それにしても「真宗」5月号に竹中智秀氏の講義が載っていて、こんなことが書いてある。
そういう無諍念王であることを突き止められて親鸞聖人は、阿弥陀如来の誓願を信ずる真実信心の行者、念仏者こそが因位の弥陀、法蔵菩薩であることをも、これは、『教行信証』の「三一問答」というところのなかで、徹底して見極めておられるのです。聖人は私たちに信心の行者、念仏者こそ法蔵菩薩であることを言い続けておられるのです。
だから阿弥陀如来によって助けられた信心の行者、念仏者は、阿弥陀如来の一切衆生を助けたいという、その終わりのない衆生済度の事業に積極的に参加することのできる大乗の菩薩でもあり、その大乗の菩薩はそのまま因位の弥陀、法蔵菩薩その人であるということです。
どうなんだろうなー。教行信証には、漢文を敬語をまじえて読めという指示があって、そこは阿弥陀仏・法蔵菩薩からの行者への働きかけ(他力廻向)を表現するものだと言われてきたから、法蔵菩薩と行者を別々として考えることが前提としてあった。
その線に乗った上で、三一問答の展開は、行者が法蔵菩薩の「事業」に共感し、参画していくことを示しているというのが、らくりんさんの読み方だ。竹中さんのように最初から念仏者=法蔵菩薩とは言っていない。結論は似てるけど。。。
どうなんかのぉ、このあたり
まぁ、ある意味、どうでもいい話だけどネ
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