正定聚に住す

また18日の組同朋会が近づいてきた。テキスト「宗祖親鸞聖人」第八章(二)「正定聚に住す」。
あいかわらず、佐貫で浄土三部経千部読誦の行をやめられたエピソードに悩まされている。


たわごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。さて、これこそ心得ぬ事なれ。念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなおして後は、経読むことは止りぬ。(恵信尼文書)



衆生利益のためにとつづけられた三部経読誦を宗祖が思い断たれたとき、そのとき宗祖は、苦しみのなかで倒れていく人々の苦しみから目をそらしてしまわれたのでは、けっしてないのです。それどころか、逆に、衆生利益のために三部経読誦を思い断たれたとき、そのときはじめて、本当に、その人々のすがたが、その人々の苦しみが見えてきたのではないかと思います。人々のすがたが本当に見えたとき、同時に、その人々に対する自分のいたわりや、思いのすえとおらぬこと、何一つ本当には為しえぬ自分が見えてきたのだと思います。それは、なまはんかな見え方ではなく、とことん見えてきたのでしょう。すくなくともとことん見えてくるまで、宗祖は十七年間もの長い年月、自分への厳しい問いを持ちつづけておられたのです。場当たりの、始終なき聖道自力の慈悲に自分をごまかしてしまうことなしに、現実を直視してゆかれたのです。(「宗祖聖人親鸞」宮城しずか)


ネットワークで前面に立つ活動をしていた若者と、今回の旅でご一緒した。懇親会の席で彼女が「ネットワークを辞めたい」と言い出しておどろいた。ハンセン病に取り組むという発表をしながらも、思うようなことができないことに悩んでいた。社会人になっていくなかで、自分の立ち位置とか無力さとか欺瞞が見えてきたようだった。この旅をきっかけにしてもう一度、関わるとは言ってくれた。
オレなんかは歳くってる分、そのあたり、ごまかしてる。宮城先生の文を読んで、彼女を思い出した。


「正定聚」とは、大衆の中で現実を直視していく立ち位置じゃないかと、考えたり、している。

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