不退転とは
昨夜は野々市にて十住毘婆沙論学習会、昨年以来、久しぶりの開催でした。
阿惟越致品の後半を読みました。こんな問答があります。
問いて曰く、すでに知りぬ、この法を得れば、これ阿惟越致なりと。阿惟越致に何の相貌か有りや。
答えて曰く、般若にすでに広く阿惟越致の相を説けり。若しは菩薩、凡夫地・声聞地・辟支仏地・仏地を観て、不二・不分別にして、疑悔あることなし。まさに知るべし、これ阿惟越致なり、と。
阿惟越致とは不退転のことですが、不退転の相というのは他者の修行の段階、あるいは生き方の違いを、疑ったり侮ったりすることなく見るのだということです。ということは、自分自身のことについても、どの段階にいるかという思いを離れてしまうんでしょう。
私は「不退転」というのは、もうこれでだいじょぶだ、ここまでやったんだからこれで退くことがないという安心感とか境地を示しているのだと思っていました。そうではないんですね。境地にしがみつくから、退転するという恐れが出てくる。それが、自分が学んだり得てきたものから解放される。オレはここまで積み重ねてきたんだぞという思いから、手を離してしまうというか。
まぁ、そうなると自分自身が不退転の位にあるかどうかという意識さえ、どうでもよくなるんじゃないでしょうか。そういうことを、本当の安心と言ってもいいのかな。
差別から解放されるのが、仏の本質。
さすが、「空」の大成者、龍樹だなぁと思いました。
次回は5月8日です。いよいよ易行品に入ると思います。近隣の方々、ぜひ御参加ください。
コメントを残す