無量寿
サーシャ・コーエンの右肩が落ちたコスチュームってどうなんでしょうか。何かが憑依したみたいな、鬼気迫るスゴイ演技でした。
さて、玉永寺同朋会で正信偈を学ぶことになったのですが、今回はテキストなしということです。
レジメを自作して臨むということで、しんどいですが、けっこう楽しみでもあります。
なんで正信偈の最初が「帰命無量寿如来」なのかを考えています。浄土論や真仏土巻とかみれば「光」が冒頭にきそうなものが、なんで親鸞は「無量寿」をもってきたのかなと。そもそも、「光」を組み込んだ名号は前例があるのですが、「帰命無量寿如来」という言葉自体の出典が、なかなか見つかりません。
しかし、「無量寿経」とか「無量寿如来会」とか、馴染み深いところで「無量寿」という言葉は使われています。そして、どんな時代にもそこにいてくれる仏というのは、とても大事な要素ではないかと思い始めました。つまり、このごろの私のワンパターンなのですが、末法・仏滅という時代に確実にそこにいてくれるはずの仏ということを、親鸞が重視したんじゃないかなと。
まぁ、このごろはそればっかりなんだけど、そのあたりから攻めてみっか。
とっかかりが見つかったので、とりあえず安心してるオレだったりしましす
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