民衆にかえる2

越後で「民衆にかえる」というなら、それまでは民衆でなかったのかとも考える 比叡に上って降りて吉水に行って流罪に遭う そのどこでもなく越後で民衆にかえったということ


じゃあ その前はなんだったのかといえば 求道者とか修行者であったということかな その意味では法語3に第二十願文が引かれているのが興味深い ちなみに第十九願文は比叡山での修学において引かれ 第十八願加減の文は法然上人との出会いの場面で引かれている いわゆる三願転入は19→20→18なのだが、このテキストでは19→18→20となっている


だから法然に合い本願の教えを学んでも 流罪にあっても 自分の生き方は第二十願的でしかなかった 賢善精進でしかなかったと 越後において気づかされる事があったのだという主張が このテキストにはあるのだと思う

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