民衆にかえる

18日は午後から組推進員研修会でお話しすることが決まっていたので、和田先生追悼の集いには参加できないことにはなっていたのですが、18日夜にお通夜におまいりすることになってしまったので、源さんを偲ぶ会も欠席することになってしまいました。(´・ω・`)ショボーン


明日の研修会はテキスト「宗祖親鸞聖人」第七章「民衆にかえる」についてお話します。
越後流罪についてなのですが、このテキスト、法語の選び方が独特で、まず唯信鈔文意の「りょうしあきびと、さまざまのものは、みな、いしかわらつぶてのごとくなるわれらなり」が引かれています。
いろいろ考えたのですが「われら」というのは聖人が自分の立場というか、立脚地を「いなかのひとびと」に置いたということだと思います。立場や身分を越えてあらゆる人々に伝わるものを普遍宗教といいますが、それが、ああいい話だと、すっと通り過ぎてしまう、奇麗事におわってしまうということがあります。エロ坊主さんのBBSで書いていた話題だな。自分がどこに立って教えを受け止めているのかをはっきりさせるということが、大切だと思うのです。それが「民衆」なのだと、このテキストは押えているかな。そしてうまいこと、二つ目の法語は歎異抄「ひとえに親鸞一人がためなりけり」になってるわけだ。
ただ、そうなると特殊な、一部にしか当てはまらないということがあるのかしら。民族宗教や国家の宗教とはどう違うんだろとか、ほつほつ考えつつ、明日に臨みます。

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