発願回向
今日は組の同朋会へお話しに行く。テキストは「宗祖親鸞聖人」、聖人の生涯をたずねたものだが、今月は六角堂での夢告がテーマ。性の問題をどう話したらいいのかずっと憂鬱だったのだが、けっきょくのところ、大乗仏教の課題の克服みたいな、かしこまった硬い話になったような気がする。
座談会。いきなり先回少し触れた三願転入についての質問がでる。いつもそういう言葉に敏感なおばあちゃんからの質問。なんとか分かりやすく話すように努力。続いて別の方から二十願のなかの回向という言葉について、これは自力ということなのかという質問。説明はするが、徐々に話せば話すほど難解になっていくよう雰囲気に焦りまくる。。。
いつでも、どこでも、だれでもできるお念仏を語るのに、
なぜいつもこんなことになってしまうんだろう。
なぜいつもこんなことになってしまうんだろう。
帰り、車のハンドルを握りながら同朋新聞6月号の表紙にある記事を思い出した。
「発願回向とは何か」という老女の問いに、棟方志功が答えたという。
「おばあちゃん、アンタが今それを問うておることが発願回向じゃないか」と。
「おばあちゃん、アンタが今それを問うておることが発願回向じゃないか」と。
記事を読んだときは何を言っているのか分からなかったが、今やっとその意味が分かった。
自分の思いを超えて、自分を突き動かすような問いが生まれてくることを、発願回向、他力回向といってるんだと。
自分の思いを超えて、自分を突き動かすような問いが生まれてくることを、発願回向、他力回向といってるんだと。
そういう言葉がポンと出てくるようになりたい。
とにかく志功のようになりたい。
どうしたらそうなれるのかはさっぱり分からんが、
そのためにオレは奮闘努力するのだ。
とにかく志功のようになりたい。
どうしたらそうなれるのかはさっぱり分からんが、
そのためにオレは奮闘努力するのだ。
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