「悪について」

悪について
私は大学で哲学専攻だったのですが、ある先生から「哲学とは分析であり、人生論ではない」という訓辞を受けまして。
まぁ、その先生はそのまんま、分析哲学の先生だったんですがね・・
それから哲学というのは物事を考えるヒントや手がかりになるとしても、そう期待できるものでもないから、難しくて頭痛くなるし、時間がをかけて学ぶもんでもないなと考えて適当に卒業してまいりました。
はい、これは、落第哲学徒が負惜しみ言ってるんですがね・・
この本で取り上げられているカントの考えるところの「道徳的善さ」なんですが、一片の自己愛が行為に入り込むことも許さないとか(自己犠牲も奉仕もすべてその例外ではない)、実に厳しいものなんです。カントの定義に正直に随えば、世間に道徳的行為なんて成立するはずがないです。その意味では実現不可能な、まさに哲学的道徳でありまして、まぁ研究室でもって知識人たちが言葉遊びしてるだけのもんだとしか受け止めようがない感じ。
ところがですね、この本の作者、中島義道さんはそうは考えなかったんですわな。
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いまやわが国では、親殺しや幼児虐待や少年による傷害・殺人など、残虐な犯罪事件が毎日のように起こっている。ジャーナリズムは騒ぎ立て、次々に教育評論家や精神病理学者や犯罪心理学者、はたまた歌手やタレントやスポーツ選手までが、テレビや新聞に登場して、わがもの顔に「対策」を論ずる。私には、このすべての現象がきわめて不愉快である。
犯罪被害者(とりわけ遺族)には、何も言うべきことはない。「なぜ?」という問いが、「なぜ、うちの息子が?」「なぜ、私の夫が?」「なぜ、俺の恋人が?」という問いがからだを貫き、世界全体を凍りつかせていることであろう。
私がはなはだしい違和感を覚えるのは、こうした残虐な事件について語るレポーターやニュースキャスターやコメンテーターたちの鈍感きわまるふるまいである。一様に、異常事態に驚き呆れたという顔をし、沈痛な面持ちで現代日本人の「心の荒廃」を嘆き、「どうにかせねば」と提言する。あたかも、自分はこういう悪とはまったく無縁の安全地帯にいるかのようである。自分の血液の中には悪が一滴も混じっていないかのようなそぶりである。犯人(容疑者)を異常な者、自分を正常なものとはっきり区分けしたうえで、彼(女)の行為の恐ろしさをこれでもかこれでもかと力説する。それに留まらず、社会がこういう人物を生み出してしまったことを嘆き悲しむ。いや、さらに、彼(女)に哀れみをかけ、「人間であれば」いつか改心することを、遺族への「心からの謝罪」を期待する。
もちろん、彼らの言葉は、ある社会的役割を自覚してのものであろう。だが、それに何の後ろめたいものも感じないとすれば、自分を棚に上げたしらじらしい発言に対しあとで激しい自己嫌悪に陥らないとすれば、彼らは私とは異世界の住民である。
彼らの言動を膨大な「善良の市民」たちが支えている。自分を何の躊躇もなくまともな人間の側に置き、犯罪被害者に心からの同情を寄せ、犯人(容疑者)に不思議な動物でも見るかのような視線を注ぐ。この安定した固い枠が永遠に続くとでも思っているかのような自信に満ちた態度である。自分の中の悪を見ようとしない彼らは有罪である。自分の中の悪に蓋をして、他人を裁く彼らは有罪である。
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ウウム、カント倫理学を読み込んで、こういうふうに現実社会に対して発言するところが、すごく驚きです。カントが究極的な現実に存在しえないような善を導きだしたことを、こういう風に、なあなあであたりまえにしていた現実を照らし出す、鏡のように使ってるんですわ。
さらに、作者は悪を必然的に内包している人間が、真の道徳に生きるというのはこういうことだと結論します。
「根本悪のもとにあるからこそ、われわれは道徳的でありえるのだ。根本悪の絶大なる引力を知っているからこそ、われわれは最高善を求めるのだ。われわれには絶対的に「正しい」解答が与えられないと知っているからこそ、それを求めつづけるのである。」
解答がないと分かっていても、それを求めつづける。迷いつづける、立ち止まることなく歩み続けることが道徳的に生きることになっているってのは、なんだか、どこかで聞いたことがあるような気がしますな。。。
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