今日は同朋会
今 寺報の編集に追われています。住職と坊守と私とで、ケンケンガクガク、一触即発に意見を戦わせ、えらいことになってます。私一人で作れたらいいとも思いますが、他人といっしょというのも大事なんでしょうね
午後から同朋会 正像末和讃の便同弥勒の部分です どうなりますやら
第二十五首
五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし
○五十六億七千万
「菩薩処胎経」に,弥勒菩薩は五十六億七千万年後に兜率天からこの人間世界へ降りてきて新しい如来となるとある
○このたび
この機会。
「真に知りぬ。弥勒大士、等覚金剛心を窮むるがゆえに、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏衆生は、横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。かるがゆえに「便同」と曰うなり。しかのみならず、金剛心を獲る者は、すなわち韋提と等しく、すなわち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなわち往相回向の真心徹到するがゆえに、不可思議の本誓に籍るがゆえなり。」
(親鸞聖人 「教行信証」)
第二十六首
念仏往生の願により 等正覚にいたるひと
すなわち弥勒におなじくて 大般涅槃をさとるべし
○念仏往生の願
第一八願 たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれざれば、正覚を取らじと。ただ五逆と正法を誹謗を除く。
わたしが仏となる時、あらゆる人々は、心を尽したわが願いを信じて、わが国に生まれたいと願う真の欲求を発見するだろう。少なくとも十回の念仏を称えて、もし、わが国に生まれないならば、わたしは仏となることを放棄する。ただ、五逆のつみびとと、仏法をそしるものは除くということを銘記してほしい。
○等正覚
「正定聚の位なり」(左訓)
仏になる因が充分に熟した等覚の位のこと
○大般涅槃
すぐれて完全なさとりの境地
第二十七首
真実信心うるゆえに
すなわち定聚にいりぬれば
補処の弥勒におなじくて
無上覚をさとるなり
○補処
ただ一生涯の間だけこの迷いの生死の世界に縛られるだけで,次の生涯には仏となることができる位。一生をすぎれば仏の位(仏処)を補うべき地位の意味。菩薩としての最高位。
○無上覚
「大般涅槃をまうすなり」左訓
しかれば、念仏のひとをば、『大経』には、「次如弥勒(念仏のひとは弥勒のごとくほとけになるべしとなり」とときたまえり。弥勒は竪の金剛心の菩薩なり。竪ともうすは、たたざまともうすことばなり。これは聖道自力の難行道の人なり。横は、よこさまに、というなり。超は、こえてというなり。これは仏の大願業力のふねに乗じぬれば、生死の大海をよこさまにこえて、真実報土のきしにつくなり。「次如弥勒」ともうすは、「次」は、ちかしという、つぎにという。ちかしというは、弥勒は大涅槃にいりたまうべきひとなり、このゆえに、弥勒のごとしと、のたまえり。念仏信心の人も大涅槃にちかづくとなり。つぎにというは、釈迦仏のつぎに五十六億七千万歳をへて、妙覚のくらいにいたりたまうべしとなり。「如」は、ごとしという。ごとしというは、他力信楽のひとは、このよのうちにて、不退のくらいにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。
『浄土論』(論註)に曰わく、「経言「若人但聞彼国土清浄安楽 剋念願生 亦得往生 即入正定聚」此是国土名字為仏事 安可思議」とのたまえり。この文のこころは、「もし、ひと、ひとえにかの国の清浄安楽なるをききて、剋念してうまれんとねがうひとと、またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり。これはこれ、かのくにの名字をきくに、さだめて仏事をなす。いずくんぞ思議すべきやと、のたまえるなり。安楽浄土の不可称・不可説・不可思議の徳を、もとめずしらざるに、信ずる人にえしむとしるべしとなり。
また王日休のいわく、「念仏衆生 便同弥勒(龍舒浄土文)といえり。「念仏衆生」は、金剛の信心をえたる人なり。「便」は、すなわちという、たよりという。信心の方便によりて、すなわち正定聚のくらいに住せしめたまうがゆえにとなり。「同」は、おなじきなりという。念仏の人は無上涅槃にいたること、弥勒におなじきひとともうすなり。
(親鸞聖人 「一念多念文意」)
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