「求める法」の呪縛
毎月18日は組の同朋会にて いよいよ「本師源空明仏教」に入りました
浄土宗のHPから拝借した法然上人の年譜を参考にして
熊谷直実、平重衡の上人との出会いを中心にお話しました
いろいろな座談があったのですが
熊谷直実のことを補足するのに「信の座、行の座」のお話をしたら
「信がなくはいたずらごと」と言いますから 信心がないとダメなんですよね
という発言が やはり でてきました
そこで選択集が菩提心不要ということを主張しているという話題もでてきて
このあたりで混乱してくるわけです
蓮如、あるいは親鸞は信を重要視し、法然は行を重要視したという先入観みたいなものがある それは親鸞を開祖として法然より進んだ人物としてみたいということもあるだろうし 私たち北陸門徒が信心為本を御文から読み聞いてきたという歴史もあったりして
念仏申せば救われるということを信じる これをワンセットで読めばいいのに
「信」を自力で手に入れる モノとして考えたくなる
そこを どう読み解いていくのかが 私がずっと抱えている課題です
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