第二講

第二講(一九九一年四月一三日)

はじめに
富山の聞法会ということで、去年から一応今のところは年二回というお約束で、「正信偈」のお話をするということが表看板になっているわけです。
先回は、どうして富山は「正信偈」の話を要求なさるのかという問題をわたしのほうから提起させていただきました。
すぐに返事を出していただこうということではなくて、「正信念仏偈」という偈文が親鸞聖人の教学の営みの中で、ある意味では中核点といってもよいような位置を持っているのだということをうなずくことができれば、「正信念仏偈」をわたしたちは毎日ご飯を食べるのと同じように読誦しておりますから、それはそれで大変いいことだと思うのです。親鸞聖人の顕浄土真実教行証という課題を中心に据えた教学の営み全体の中核点といってもいい偈文ですからね。
親鸞聖人は九〇歳でお亡くなりになるぎりぎりまで教学者であり続けたと、わたしはいつもいい切ります。実際は書き物として残っているのは八八歳の時の「弥陀如来名号徳」という短いものです。関東の同朋に出したお手紙として残っているのも、やはり文応元年という年が示されている八八歳の時のお手紙が一番最後のお手紙ということになっているわけです。
ただ私が申しますのは、現在そこまでわかっているとしても、「弥陀如来名号徳」という書き物とお手紙の両方を見ましても、もうそれでやめてしまったとか、あるいはそれで終わってしまったとかいう感じにならないのです。浄土真実教行証を開顕するというお仕事を、命の終わるまで続け切られたのではないかということが念頭を離れないのです。

鈴木大拙
このことは、ただ私の想像ということだけではなくて、具体的にこういうことを示してくださった方が、身近な所で出会うことができたお方として、三人おいでになるのです。
そのお一人は鈴木大拙先生です。鈴木大拙先生がお亡くなりになったのも九六歳です。ところがお亡くなりになる数年前、あるご縁で先生のお話を聞きました。その時に先生ははっきり「自分は今、非常に大きな仕事を完成しなくてはならないと思っているのだ」といわれました。
鈴木先生は仏教の経典を世界に公開していくということを具体的にやっていこうとなさっていました。ただそれも、漢文の、つまり支那の言葉をアメリカ、イギリスの言葉に換えていくということだけではありません。だいたい日本人の考え方とイギリス人の考え方とは、決して同じではない。例えば、犬が走ったという一つの事についての反応の仕方、あるいは反応したことによってそれを受けとめていく感覚、その感覚から出てくる思索ということは、質が違うといっていいほどかなり違っているわけですね。すると、鈴木大拙先生がおやりになろうとした仕事の根っこにあるものは、一国の言葉を他国の言葉にうつしていくのではなくて、言葉と言葉とが生まれてくるもっと根っこの所で共感し得るような、そういう言葉を生産していこうというお仕事だったと私は思うのです。
ご承知のように、大拙先生に『教行信証』の英訳というのがございます。あの英訳を『教行信証』の本文と比べていくといろいろ問題が出てきます。鈴木先生が英語に訳した言葉と、『教行信証』の現代日本語に訳した言葉とは、照らし合わせてみると必ずしも一つになっていないのです。そういうときに、我々はうっかりしますと、これは鈴木大拙という一人の人間の『教行信証』了解であってそれ以上ではないのだ、他の人がやれば違う了解のもとで翻訳されるだろうとすぐに考えてしまいがちなのです。当然そのように考えて間違いでない部分もあります。
しかし、どうも私には、亡くなる数年前に「自分は今、非常に大きな仕事を完成しなくてはならないとおもっているのだ」といっておいでになる様子を念頭に浮かべてみますと、それは単にまた大きな仏典を英訳していって、啓蒙的に海外に広めていくのだというお考えだとは思えなかったのです。
やはり九〇歳をこえるお年になってこられますと、当然いのちの終わりということを、肉体的にもあるいは心の中でも、どこかで感じておられるに違いないのです。だとすると「大きな仕事」というのは、単に完成するとどうなるかということを予測する意味での翻訳事業をするということだけではない。根っこの所でうなずき合えるような、いってみれば、新しい言葉を生み出していこうということではなかったかと思うのです。そうでなければ先生の言葉が、強がりをいっていることになるか、法螺を吹いていることになるか、夢を見ていることになってしまいます。ところがお聞きしていたときの感覚では、やはり何か大きな仕事をなさろうとしているのだなという実感がこちらに伝わってくるのです。
いつ何時終わるか終わらないか、そのことはもう考えの中に入れておく必要のないこと。話をしていた一時間後に死んでいっても、それでもその言葉は生きた言葉になるというようなお仕事を、先生の中で深めてこられたのではないでしょうか。

曽我量深
そして、曽我量深先生。曽我先生もお亡くなりになったのは九六歳でした。
私は最後までいろいろな折りに曽我先生のお宅におたずねをしておりましたが、私の一生のなかで、なにか私の個人的感情として一生の不覚だと思っていることがひとつあるのです。
先生がお亡くなりになったのは昭和四六年の六月二〇日ですけれども、私はその前日から石川県の小松へいっておりまして、二〇日の午前中に京都に帰ってきたのです。たいていは、お見舞いをかねて、こんなことを話してきましたという報告をしに先生のお宅にお寄りしていたのですが、その時どのような気持ちだったかよくわかりませんが、一度家へ帰って荷物を置いてという思いで家へ帰ったのです。そして荷物を置いているところへ先生が亡くなられたという電話がかかってきたのです。
一生の不覚というのは大袈裟ないい方ですが、なにか先生の死に目に会えなかったからしまったというだけではなくて、何か心に残るのですよ。そういうことにあまりこだわらない人間なのですけれども、なにか気になるというか、引っ掛かるのです。引っ掛かって、先生のご葬儀の六月二二日が私の誕生日なのです。
自分でその辺りに理屈をつけて、もやもやしたものを整理していかないと、曽我量深という先生に会ったことを確かめる資格を失っていくのではないかというような妙な不安感のようなものが有ります。
その曽我先生もやはり、亡くなられるまで意識がはっきりなさっておいでになり続けたとは申しません。時には間断して、今日は事柄がすっきりしておいでにならないなと、こちらにすぐ判るような時もありました。かといって、そのままそういう状態が続くかといいますと、非常に鮮明な意識の中できちっと教学的な確かめをしてくださるのです。ですからそういう意味では亡くなられる、息を引き取られる寸前まで本当に油断がならないといいますか。こちらから申しますと、いつ何をいい出されるかわからない。いままでいってきたことの反復ではなくて、なにかまた新しいことを、新しいうなずきを表現されるかわからない。しかも長い言葉ではなくて短い言葉でおっしゃいますから。そんな曽我量深という先生の、本当に最晩年のお姿を見ておりますと、そういうことが人間には有り得るのだということが思われるわけです。

金子大栄と『光輪抄』
もう一人は金子大栄先生。この先生も九六歳なのですけれども。なぜ三人とも符合したごとく九六歳でなくてはならないのかという気さえいたします。
この金子大栄先生の場合、私は亡くなられる時に枕元にいました。そして、主治医の先生が最後の脈をとっていわれた言葉が印象に残っているのです。死因の病名をなんて書きましょうかねって相談されたのです。そのお医者さんも八〇歳のお年になられた老大家で、ずっと金子先生の体を診続けてこられた方なのですが、病名をつけようがないというのです。最後に、病気の名前にはならないけれども、老衰という書き方があるのだが、老衰と書く気にならないというのです。そのお医者さんが困っておられる中で、ぽろっと漏らすように出た言葉が、私も先生にあやかりたいですなあという言葉でした。どこを見てもお悪いところがない。たいてい年老いてきますと人間というのはどこかに欠陥が見つかるものだがどこも悪いところがない。結局老衰ということになって、先生の亡くなった時の死因は老衰です。でもその老衰は、お医者さんが困り抜いて付けられたといってもいいような、そういう最後でした。
先生が一番最後に論文として書かれた『光輪抄』があります。これは大谷大学の『親鸞教学』という機関誌の方から先生に原稿を依頼して、そして先生が床のなかで体を起こしてもらって、一閑張りの軽い机をその上に置いて、本当にミミズが這うような字で書いていかれたのが『光輪抄』です。
金子大栄という先生の長い思想の表現のなかで、『光輪抄』というのは短い論文です。しかし、はっきりいってその論文は、決して老衰をした状態でこれだけしか書けなかったという論文ではなくて、ある意味では、一生をかけて考え続け、確かめ続けてきたことを、最も短い表現で凝集的にあらわした文章だと思います。だから読みこもうといたしますと非常に難しいのです。
ただそういうことを特に私に感じさせたのは、『光輪抄』という短い文章を本当に寝床の上でやっと書く状態で書いて、そして亡くなる三週間くらいまえでしたか、『光輪抄』をよく読みなさいということをいわれました。「よく読んでください」といういい方をなさっていたのですが、その意味を私は勝手に字が読みにくいからよく読んできちっとした原稿にしなさいというように最初は取ったのです。ところが、だんだん「よく読んでください」という意味は、そういうことを要求しているのではなくて、本当によく読んでくださいといっておられるのだなあということを思いましてね。
もっとも、その意味が的確に私の中ではっきりしてきたのは、それから後に『くずかご』という題を付けた書物を私が編集させてもらいまして、出版したときです。その『くずかご』というのは『光輪抄』を書く頃の前後から、亡くなられる一週間前まで、必ずしもキチッと原稿用紙に書いたものではなく、ときには新聞広告の裏とかどんな所にでも思いついたことを書いておられるのです。それを『くずかご』というのです。
その『くずかご』の中に、『光輪抄』という題の思索の跡が二ヶ所残っているのです。その中にこうしたことが書いてあります。一番私が申し上げたいことだけを申しますと、「“汝”ということ」と書かれまして次の行から一字下げて「○量深」と書かれた。「量深」と書いてその上に丸を書いておられる。さらに行を改めて「自身を信ず」、そして、「信に死して願に生きよ」と書かれたのです。これを見たとき『光輪抄』は並々ならぬお考えのうえでお書きになったのだなと思いました。『光輪抄』の文章の表面に表現されていることの中には直接そのようなことは出てきません。しかし先生が光輪、後光、光背ですよ、その光輪という題を付けた論文を書こうとした時の内面にあった課題というのは、機の深信という事ですね。
たまたま昨日能登で宿業の問題というテーマを与えられまして、話をしてきたのですけれども、機の深信といういうことになると、我々にしてもすぐに出てまいりますのは、曽我量深先生の宿業了解ですね。宿業了解というのは機の深信の了解であり、機法二種深信といいますけれども機の深信に帰結する。だから機の深信は実は真宗の救済構造、いうならば救済構造の究極的表現だと、こういってもよいような性格を持つのだろうと思います。
その機の深信ということを深く問うておられた。何分にも雑記帳ですから、ああだこうだという説明ではなくて、「“汝”ということ」と押さえ、それを「○量深」、「自身を信ず」、そして「信に死し願に生きよ」と記されたのです。「信に死し願に生きよ」はご承知のように昭和三六年ですか、ご遠忌の時の曽我先生の講題ですね。
曽我先生がその話をなさった時に、話の内容よりも「信に死し願に生きよ」という題にびっくりしまして、翌日先生のお宅にお尋ねしまして、その講題を書いていただけませんかとお願いしましたら、「いいですよ。」といわれて、ちょっと中に入っていかれまして、「はい。」といって書いてくださったものを頂いて見ましたら「信に死し願に生きん」となっているのです。「信に死し願に生きよ」という講題でお話になった先生が、一日たった時、書いてくださった言葉は「信に死し願に生きん」なのです。だから、生きよという呼びかけの表現を取っているのではなく、生きんという自分の中での確かめ、うなずきの表現なのです。それを書いてくださったのです。一日の中で「信に死し願に生きよ」という講題は動いているわけです。講題というか課題的言葉が先生の中で「信に死し願に生きん」といううなずきという形に動いていくわけです。
「信に死し願に生きよ」というのはどういうことか。それは「前念命終、後念即生」という善導大師のお言葉を、親鸞聖人が『愚禿鈔』の中でお確かめになっている。それを曽我先生流にいうと「信に死し願に生きよ」という事になるのだろう。しかし、筋としては間違いではないかもしれませんが、そういうこととしてだけでは了解できたというわけにはいかない言葉ではないかと思うのです。逆にいうと、その言葉が、了解する人間の了解、それ自身の質を問うてくるような言葉だと思うのです。そういう言葉に出会うことは大きい。
金子先生の場合、『くずかご』に書かれた文章から思索の跡をうかがっていくといたしますと、「量深」という字に丸を書いているのですから、最後の『光輪抄』に至るまでの仏教へのうなずき、浄土真宗へのうなずきは、いろいろな現実制約の中で、今日では批判されているような、あるいは訂正を要求されているような部分がないとは決して申しません。例えば戦争責任の問題というようなことで問題視されているということも知っておりますけれども、やはり一貫して事を明らかにしようとなさったその根っこにあるのは、曽我量深という先生の思索に呼応していこうということがずっとあったということを思うのです。『光輪抄』というのは、師であり友である曽我先生に捧げていく感覚の文章だと思うのです。
こうした鈴木大拙先生、曽我量深先生、金子大栄先生という、この三人の先生方の本当の最晩年に、たまたま縁があってお会いしてきたということがありまして、だから親鸞聖人が八八歳でもう何も書けなかったとか、書かなかったとか、考えなかったとか、そんな具合にはどうしても考えられないのです。

親鸞の教学の営み
なぜ今回のお話の頭でこのようなことをいい出したのかと申しますと、親鸞聖人の教学の営みについての現代人の発想の中に、言葉には出さないけれども、案外このような感覚があるのではないかと思われる節が見つかっておりまして。それはまた次のところぐらいでお話ししようと思っておりますけれども、それを撤回さすためにも、少なくとも最後の最後まで、息を引き取るまで教学者であったのだということを私たちはきちっと押さえておかないと、年齢とともに衰えていく思想、年齢とともに大事なことが忘れられていくような思想、あるいは年齢とともに追憶が表現を変えて現れてくるような思想と、事が一緒になってしまうと思うのです。そうではないと思うのです。ある意味では、先の思想を切ってでも新しい思想を展開していく。だから極端にいいますと、それを読む人が、矛盾しているではないかと、先にいったことと後にいったことと違うではないかといっても、結構だ。それは思索、それ自体が動いたのだから、生きているのだから、人形ではないのだから、違って結構だと。そうスパッといい切れるような思索だと思うのです。
そういうことが、特に顕浄土真実教行証というのが、親鸞聖人のどの書物、どのお手紙を読むときにも、教学の中核的課題なのだと。それ以外のことを親鸞聖人はおっしゃらないのだと。だから親鸞聖人のお書き物の中から、浄土真実教行証を開顕するということが、ここにこのように示されているというようにキチッと了解ができないならば、了解しようとする我々のほうに、夾雑物が有り過ぎるのだろうといい切ってもよいと私は思うのです。

「この詐称の罪」
こんなことを申しますもう一つの点はですね。それは真宗大谷派の一般機関誌というのか、『同朋』という雑誌の二月号のグラビア、一番最初のページに「この詐称の罪」という題の文章を書いたのです。偽って真宗学徒と名乗ってきた四〇年は、自分にとって詐称の罪を犯してきたのだ、という感覚で書いた文章なのです。私が現在、親鸞ということを憶念する時にでてくるのは、やはり四〇年間真宗学という名前の学問をやってきた。その内容はどのようであったかは抜きにして、やってきたということは間違いのないことですし、そしてその四〇年間真宗学の学徒であるということで飯を食ってきたということも事実ですし、それ全体を否定はできないし、弁解もできません。弁解する必要もないのですけれども。
ただ、はたして親鸞が顕浄土真実教行証という軸のもとに明らかにしようとした仏教の学びを学んできたといえるかどうかということを自分に問い直してみますと、私の真宗学全体が、したがって真宗学徒を名乗ってきた私の全体が、やはり真宗学徒であるという表現をとってきたことが全部詐称であったのではないか。偽りの名前を称してきたのではないかという実感が有りまして。それはたんに詐称しておったというだけではなくて、そこには罪が有るのだと。詐称してきたということが、親鸞を明らかにしているつもりで、親鸞の一番大事な課題を隠してきたのだ。いうならば親鸞をおおやけにすることを阻害する仕事を四〇年やってきたのではないかという実感が有るわけです。
それを書いてから、正直申しまして大変なのです。もう手紙はくるわ、電話はくるわ、大騒ぎなのです。自分の気持ちの中では全く嘘ではないのです。実際は、いっぺんそういうような整理を自分の中でしないといけない。その時の、問題の所在ですね。私は親鸞聖人の明らかにした仏教以外は知らない人間ですから、その知らない人間である私が親鸞聖人の明らかにした仏教、浄土真宗とはこれだと、いい切ったとき、それは果たして親鸞聖人の明らかにして下さったそのことと、一つになっていくのか。表現はいくら違ってもかまわないし、時代の推移の中でその事柄が新しい表現を生み出して、その新しい問題についての確かめの一つとして、明らかにされていくという方法はいくらでもある。しかし質として一緒であるかどうかということが、これからはずっと自分の中で自問自答していかなくてはいけないことではないかという気持ちもありまして、「この詐称の罪」という題をつけた短文を書いたのです。
「正信偈」の講義ということですが、今回は、「正信偈以前」というか、そんな感じのところで押さえておきたいことだけは押さえておこうと思っております。

思索の立脚根拠
ところで、この「この詐称の罪」以来、私、話の仕方に一つの方法を考えついたのです。それはまず最初に結論のほうを先にいっておくということですね。その結論へ到達する筋道はきちっといくかどうかわかりませんから、だけどいいたいことはこうなのだということを、まず最初にいっておくということですね。
そういう意味で結論だけ先に申しますと、顕浄土真実教行証、これが先程からいってますように、親鸞聖人の教学の営みの主軸です。だからこの主軸からはずれることは、親鸞聖人はどこでもおっしゃっておられないわけでしょう。たまたま『顕浄土真実教行証文類』という親鸞聖人の主著といわれております書物があるといいたいのではなくて、あの題名になっている顕浄土真実教行証という、このことを親鸞聖人は顕らかにしようとするために一生をかけたのだと。もっと正確に申しますと、法然に会わなくてはならなかった親鸞自身の出発点から、じつはこのことを顕らかにすることが、親鸞聖人の唯一の、ほんとうに唯一無二のお仕事だったのだ、仏事だったのだといってもよいと思うのです。
そうすると、その顕す主体がはっきりしないと、浄土真実教行証はいろいろに現れるわけです。いろいろな了解を通して、いろいろに現れたって、決してそれはいけないという決定根拠はないですね。とすると、やっぱり顕すとこういい切る限りにおいては、いい切る根拠、自分の立脚根拠、思索の根拠が、親鸞聖人は非常に明快であった。もうこれは譲ることのできない根拠を確立しておられた。それが愚禿釈という、仏弟子の名乗りであると。これだけのことをいいたいのです。だから愚禿釈という根拠が明確にならない限り、浄土真実教行証を顕すことは決してできない。
とすると、我々にとって『教行信証』の文々句々、なかんずくその中核の「正信偈」をどういう立場で読んでいるのか、どういう立場でそのように了解するのかと問われた時に、「いや別に立場はないのです。ただ毎日読んでいるのだけれども、どうもよくわからないから、わかりたいと思って努力しているのです。」となれば、それは毎日読誦しているのだけれども、わからんことを読誦していても仕方がないからわかりたいのだ、ということが根拠になっているわけですね。それは我々の生活の中での、真宗門徒としての生活の在り方の中で、必要性のもとに立てられた根拠ですね。
単純な問いですが、そのために「正信偈」はあるのでしょうか。そういうことはないと思います。それこそ詐称の罪ではありませんけれども、その根拠を払わないと、かえって誤るのではないか、過ちを犯すことになるかもわかりませんね。
そういうことに近づけて申しますと、愚禿釈というのは、親鸞聖人ご自身が、決して他から何かの要請によって消極的に名乗った名ではなく、どうしてもやらなくてはならない仏事が明確であるから、その仏事を顕らかに成し遂げていく根拠はこれしかないのだという、根拠の名乗りなのです。だから愚禿釈というこの名乗りが、どのように我々に了解されるかによって、浄土真実教行証を顕すということも、了解の質が変わってくると思うのです。だからこれは相呼応しているわけです。たとえその本文のわけがわからないとか、はっきりしないとかであっても愚禿釈という根拠がはっきりしていれば、実は本質のところでは、過ちを犯さない。極端にいうと、そこまでいえるような根拠が愚禿釈だと思うのです。
では愚禿釈とは何か、更にいうと、その愚禿釈ということは我々の中でどのような感覚で受けとめられているのか。あるいは愚禿釈ということにかかわるいろいろな了解というのが、親鸞聖人が亡くなられてからずっとあるわけです。その示され方全体が親鸞聖人の愚禿釈の名乗りのもっている決定的な意味と一つになる了解なのか。こうして尋ねていきますと、問題があり過ぎるほどあると思うのです。親鸞聖人のお仕事の根拠が明確にならなかった歴史が、親鸞没後、今日に至るまでの教学全体を、親鸞聖人の顕浄土真実教行証という仏教の学びと、一つの方向へきちっと方向づけをさせなかったのではないかという気が私はするのです。
今回は、愚禿釈ということだけを念頭において、ではどうして私がそんな結論を先にいい切ってしまうかということを、できるところまでお話ししておこうかなということでお邪魔したわけです。

正信偈以前
その愚というのは何であり、禿というのは何であり、釈というのは何であるのかという言葉の解釈ではなくて、愚禿釈と名乗った事の持っている、言葉についての了解感覚がどのような感覚なのだろうかということです。
その辺がやはり最初に「正信偈」のお話をするということのために、確かめておかないといけないことだという意味も十分にあると私は思っています。
気持ちとしましては、「正信偈」を具体的に親鸞聖人が、『教行信証』の行巻の最後に「正信念仏偈」という題名のもとにを位置づけたことの持っている必然性を、親鸞聖人自身の『教行信証』の中での展開を通してお話をしたいわけなのです。しかし、それをするに先立って、きちっと押さえられる限りのことを押さえておかないと、その話をしておりましても、事柄が大地を失ったような感じになりそうな危険性を自分で感じるものですから、しばらくは「正信偈以前」という題にさせていただくということでご了解をいただきたいと思います。

親鸞聖人の家庭観
親鸞聖人の生涯懸けてのお仕事ということになると、いろいろなことをいろいろな形で生活の中で表現なさったことは別にして、本質の所では一つのことしかなさらなかった。その一つのことを言葉にすると、顕浄土真実教行証という一句に収まるのであって、これ以外のことは何もおやりにならなかった。
ある会場でこんな質問を受けたことがあります。それは、親鸞聖人は非常に庶民・大衆の心に適う仏教を明らかにしてくださった方だと教えられ、そうであろうと浄土真宗の門徒の一人として思っているけれども、どうも家庭においてはあまり、優しいお父さん・優しいご主人ではなかったような気がいたしますが、どのようなものでしょうかという質問です。そういう視点からの疑問は、起こってしかるべきだと私は思うのです。蓮如上人のお言葉をお借りしますと、まさに「在家止住の」仏教なのですから。それは、親鸞聖人の立場から申しますならば、妻をもうけ、子供をもうけ、いうならば家庭という状況を生きていくことの広がりのところに、庶民・大衆といわれる人々の生き方が親鸞聖人の目の中に入ってくる。そしてそうした人々と生活を共にしていく中で、庶民・大衆の中からの仏教のうなずきが聞き取られてくる。筋道としてはこうであることは、当然だと思います。
具体的に申しますと、現在の寺院を中心として成り立っている浄土真宗の集いを見ますといろいろなことを考えさせられるのです。あるいは本願寺という本山を中心として成り立っている教団を何も特別な意識を持たないで見ますと、親鸞聖人の顕らかになさった浄土真宗という仏教はそこに具体的表現を取っているのか。あるいは点検なしで、素通りしていってよいのかということが疑問として出てきてしかるべきだと思うのです。ところが案外そういう問いを無理に出さないのではなくて、出ない。現状の在り方が当然であって、現状の在り方の原型が親鸞聖人の時にあったのだというように考えたくなるような、そうした一種の感情に駆られることさえあるといってもよいと思うのです。
ところで先程の集会の場での質問ですが、最終的な私の返事はこうでした。では現在の家庭生活、家庭の団らん、家庭を守っていこうという感覚は、本当の意味で家庭、夫婦、親子のかかわりを、人間のかかわりとして確かめているだろうか。そういうことでいうと、家庭中心主義が核家族という表現の中で、それが家庭の分裂のような形になっている現在、それが人間の家庭といえるのか、あるいは十分に人間関係を生かしていくような場になりうるのであろうか。こうした問いを一度立ててみたときに、親鸞聖人の家庭観ということをもしいうならば、特にそういうものはお持ちになっていなかったと思うのです。そうではなくて、親鸞聖人は日常用語でいうならば、案外、わがままな人であったと思うのです。しかし、そのわがままさはいわゆる一般にいわれるわがままさではなくて、何かのことを明らかにしようとする時、当然そういうふうにならざるを得ない、いや、そんなことさえも考え得ない。ですから今日の家庭中心主義を親鸞聖人の上に求めることはできないし、そういう家庭の理想像を求めることはできないと、割り切っていた方がよい。
ある意味では、そういうような関係を保持したいと思っている根拠にある人間のエゴイズム、それをどこかで越えていかなくては成立しないようなことを、はっきりさせていこうとされたのではないか、ということです。
親鸞聖人の生き方というのは、生涯関東の田舎の人々と共に生きるということ以外の生活はなさらなかったわけですね。場所は京都に移り住まれましたけれども、書簡等を見ておりましても、関東の同朋の人々に送るもの以外はなにもないわけです。
親鸞聖人の思想ということをいうならば、一度も権力側に身を置かなかった、世界中でも希有な宗教者であった、ひょっとするとたった一人しかいないのではないかと最近思うのです。それは別に権力・反権力という考え方を先に持っていっているのではないのです。そうではなくて、親鸞聖人が関東の田舎の人々とともに生きて、そこで顕浄土真実教行証という一つの課題を明らかにしていくことに終始する限りにおいて、自ら権力側につかないという意志決定するのではなくて、事実、つかないということしかないわけです。権力側に半分身を寄せながら顕浄土真実教行証という課題を明らかにしていくことはできないことなのですから。
関東の田舎の人々は、親鸞聖人がなさっておられるその顕浄土真実教行証という教学の営みを筆に託す執筆活動の意味が、どのくらい大切なことなのかを一番よく知っていたと思うのです。中に何が書いてあったかをわかっておられた人は少なかったかもしれない。しかし、大事なことをやっておられるということは、それは彼らが接していた二〇年の親鸞とのうなずき合いの中で、疑うことのできないこととしてわかっていた。そういう確信のもとで貴重な紙や墨を援助していた。また一方では恵信尼の、いろいろな意味での生活援助が親鸞を京都で一人暮らしさせていたのだとも思います。こうしたことを思うと、先程の質問がでたときに、肩を張って親鸞聖人は家庭を大事にした人だが、やむを得ず一家離散して生きなくてはならなかったのだと弁解をするか、そうではなくて、そのような発想を越えるところにしか成立しない何かを見いだす方向で話し合いをするかはかなり大事なことだと思うのです。こうした問い、つまり今日の人間が生きていく「在家止住」という仏道の開顕のときに押さえておくべきことが、愚禿釈の名乗りの持っている意味だと思うのです。特に最近、かなりていねいに、押 さえられるだけ押さえておいて、なおかつ不十分だと気づいたときにはさらに押さえを徹底していかなくてはならないのではないかという気がするのは、そういうことがあるからです。

野間宏
私にはかなりショックだった事柄が今年の一月にありました。それは野間宏さんが亡くなったことです。
親鸞聖人御生誕八百年の年でしたか、岩波新書から『親鸞』という書物を出されました。それを読み返してみて改めて思うことは、恐らく、教団以外の人で、真正面から親鸞という人の思想をこれほど重要な思想だと位置づけた人は野間宏さん以外にはないのではないかと思うのです。『親鸞』の一番最初のほうにも書いておられますけれども、今年は親鸞という偉大な仏教者の誕生八百年といわれる記念すべき年である。この時に際して親鸞の思想に賛成する人も反対する人もまず親鸞を真ん中に据えて、徹底的に話し合っていくということが現代という時代の危機を乗り切っていく、非常に大きな働きをするのだという趣旨のことを書き出して、そこから自分の親鸞聖人の書かれたものについての了解を展開していくわけです。親鸞の浄土論、浄土についての了解というのはまさに現代、焦眉の課題として確かめなくてはならない宇宙論だと位置づけをしているわけです。その宇宙論という考え方は、野間宏さんにとっては人間ということです。人間を確かめていくのに欠くべからざること。宇宙ということの大切さがうなずかれないならば、人間であること自体が崩壊していくだろうということまで予測 しながらいっているわけです。
最近、岩波書店が野間宏さんのやってきた仕事の中から特徴的なものをピックアップしていく形で『野間宏作品集』という全一四巻からなる選集を出しました。その中に、『聖と賎の文化史』というタイトルのついている一巻があるのです。その内容は、聖と賎の文化史と、もう一つのメインが親鸞なのです。その親鸞の思想に賎に立つ思想という位置づけをしているのです。内容についてはともかくも、親鸞について、賎に立つ思想といい切った人が他にいるだろうかというと、案外いないのではないでしょうか。
その一巻についての月報の一文を私も書かされたのですが、その時に思ったのは、聖と賎の文化史とか、それとあわせて賎に立つ思想という形で親鸞を押さえていくことから野間宏という作家のイメージをクローズアップしていくと、一つの点がはっきり出てくるのです。それは、部落解放の課題ということを真正面から主題として作品を書いた被差別部落の出身でない作家は、野間宏さんひとりです。真正面から部落解放、部落差別の解放を取り上げて、それを八千枚からなる『青年の環』という作品として発表したのです。
しかも、それを書くときの軸が、最後に賎に立つ思想と命名しているように、親鸞なのです。
このことは、我々が親鸞の教えを聞いている人間だから、そういう親鸞の位置づけをしてくれたことはありがたいという話ではなくて、もっと大きな問題だと思うのです。親鸞の顕浄土真実教行証を軸とした思想というのは、恐らく野間宏さんが着目をしたであろう方向にきっちり位置づけて、十分に市民権を持つ思想だと思います。その市民権をはく奪しているのは一体だれなのかという問題を、今こそ我々は確かめていかなければならないと思うのです。宗派内的発想の中へ閉塞化させていくのか、それとも、文字どおり宇宙論を必要とする時代において、親鸞の思想がその宇宙論を構築していく根拠となるのだと、親鸞の思想が読めるのか。我々がいつのまにか十重二十重に作ってきた、自分を守るための塁を自ら破ることができるかどうか、そういうことが現代の顕浄土真実教行証という思想を軸とした親鸞の教学に耳を傾けていかなくてはならないことになる。その時、顕浄土真実教行証というのはある特定の仏教者が、仏教をある特定の視点から確かめた言葉という意味に止まらなくなってくるわけです。
そうすると、そういう枠を突破していって、お釈迦さまによって仏教は説き出されたことは歴史的に明らかなことですが、その釈迦教を越えて、釈迦教を仏教として本当に位置づけることのできるようなことを、親鸞聖人がしておられるとすると、それをする立場は釈尊から全く離れてはできないはずです。とすると、やはり釈尊の仏弟子としてしかできない。しかし、仏弟子としてでなければできないけれども、では仏弟子と名乗る人ならば誰でもできるかというと、これまたできなかったという歴史が事実を証明してきているわけです。そうすると、その時、「釈」の一字を外さないで「釈」の内実を「愚禿」という言葉で押さえた名乗りがどういう状況で名乗られ、その名乗りをもってどういうことが確認されなくてはならないかということをはっきりさせてきたのかというと、愚禿釈という名乗りは、先程、申しましたように、顕浄土真実教行証という課題の唯一の機軸点になる。そして、その機軸点をどのような感覚で受け止めるのかということをよほど徹底しておかないと、野間宏さんがいわれたことの、足元にも及ばないような、小市民的な親鸞観で終始していってしまうのではないかという気 がするのです。

「愚禿親鸞正信偈にいはく」
あえて「正信偈」に近づけて一言だけ申しますと、「正信偈」という名前は決して省略した名前ではないということは、これまでにも時々申してきました。
しかし「正信偈」とはっきりいったのは親鸞聖人ご自身です。『尊号真像銘文』にいろいろな方々のお言葉が、尊号とか真像といわれるものの銘の文として置かれている。その銘の文についての了解を述べておられるわけですが、その略本といわれているものが、建長七年、八三歳のときにまず書かれています。その時に、一番最後に、「愚禿親鸞正信偈にいはく」という書き出しで「本願名号正定業」から始まりまして、「即横超截五悪趣」までの一〇行二〇句が書かれて、それについての自分のご解釈を加えていって、『尊号真像銘文』は終わっています。その最初の略本の段階で、自分の書いた文章を讃文として置くということの意味は大変なことだと思います。それは、ある一つのおおやけ性をそこで確認していくような出来事だと思います。この一〇行二〇句は安城の御影の下の段に書かれている銘の文です。それについて親鸞聖人ご自身が解釈を加えられたわけです。すると問題としては、「正信偈」六〇行一二〇句全体の中で一〇行二〇句が讃文としてふさわしい理由が親鸞聖人の中に、なければならない。それは一体何なのだろうか。
さらに、これを今度は広本といわれている本の中で見ますと「和朝愚禿釈の親鸞が正信偈の文」、一つの標文といってもよいような柱建てがなされています。これは全体を統一するために書いたともいえますけれども、ここまではっきり確認して親鸞の名を位置づけた書き方というのはそうたくさんはありません。そういう意味では、略本のように「正信偈」の言葉が出てきてそれに解釈が続いて出てくるという形式をとらないで、インド人でも中国人でもない日本人である愚禿釈と名乗る親鸞の書いた「正信偈」の文をここに列記するという形で一〇行二〇句をまとめて書いてしまってから、改めてそれについての解釈を加えていくという方法をとっています。この方法というのは一〇行二〇句をしてはっきり「正信偈」と名乗るべくして名乗ったのだということと、この名乗ったというのは「和朝愚禿釈の親鸞」の文章として責任主体を明らかにすると同時に、それの公共性というものを明示した書き方です。実に堂々とした書き方ですね。
愚禿釈親鸞という名乗りが、どういう所にどういうふうに表現されているかを、知っていただきたい。親鸞聖人の思想の確かめの一つとして使い方の選びがあることを押さえていただきたいのです。
『教行信証』の本文のなかでは「愚禿釈親鸞」は二ヶ所、「悲しきかな、愚禿鸞」という表現が信巻に一ヶ所、「愚禿釈の鸞」が二ヶ所と全部で五ヶ所出て参ります。

三願転入序
『教行信証』の序を総・別ということでいいますと、信心をもって本とするといいますが、顕浄土真実教行証という課題の中で、本となる信心とはどんな信心なのかということの確かめが決定的に大切な事柄であるということを、別しての課題として示すのが顕浄土真実信文類序であるわけです。ですから総序の一番最後の「矣」という言葉に真筆本では「イヒオハルコトハナリ」と、一見この字の意味を解釈するように書いておられます。この字は文章の終わりに置くべき字で、読んでも読まなくてもよいと漢文の約束ではなっています。しかし総序の一番最後の書き方は「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりといいおわることばなり」というように続いているわけです。つまり、一つの文字の解釈ではなくなっているわけです。大きく全体を押さえていえば、「ひそかに以みれば」から「獲るところを嘆ずるなり」まで全部がこの一つの言葉で押さえ込まれているわけです。それ以上に付け足す必要がない。だから序というのを我々の感覚で前書きという意味でとると過ちを犯すわけです。
『教行信証』の総序には、いい終わる言葉として、これでもう十分で後は各論であるといってもよいような書き方をしているところに「愚禿釈の親鸞」という具名が出てくる。そして、別していうと、このこと一つに収まるということを明らかにする信文類序のところに「愚禿釈親鸞」と出てくる。
とすると、後で「愚禿釈の鸞」と出てくる三願転入の文と、私たちが後序と呼んでいる文の中で法然との出会いのところに「愚禿釈の鸞」と出てくるものは、他の『教行信証』の全体の文章の流れの中の一つというわけにはいかないことは想像がつきますね。それもやはり何か確認をしている言葉なのでしょう。ですから三願転入の文といわれている文章は、「顕浄土方便化身土文類」のなかの一つとして位置づけられていますけれども、それは、もっとよく見てみますと、そこから実は親鸞聖人の思想表現が大きく展開をするわけです。だからこれについて松原先生が三願転入序と呼んでよいとおっしゃったことは、かなり重要な発言をなさったのだと思います。三願転入というのは、単にこれまでの事柄をしめくくって次の問題に移っていくという話ではなくて一つの決定点であって、ここを明確にすることによって後の
信に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したもうをや。
前にも申しましたが、最後を「なり」といわずに独特の訓をつけて、感嘆詞を送り仮名としておいているわけです。その感嘆詞を置くような聖道・浄土の決判です。その決判をもととして、後に展開されてくること、末巻の終わりまで一貫して中心となる事柄を表す言葉は、「教誡」です。

なじむ、なじまないという感覚
教誡という言葉については親鸞聖人には似つかわしくない。似合わない言葉をなぜ使ったのかという考え方・感情の動きというものが従来の真宗学、あるいは真宗の教団・親鸞了解における一つの常識となっていたようです。ところが、三願転入以降のところの中核的な言葉を押さえていうならば、『末法燈明記』から文章を引いてくる前のところに教誡という言葉が使われています。それからもう一つは末巻と呼ばれております
それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、涅槃経に言わく、
と、そこに出て参ります。ところがかなりの方がこの言葉を嫌がります。もっとお優しい方だというような感覚ですかね。
しかし、はたして似つかわしくないのか、あるいは教誡という言葉がなじまないような親鸞を我々は親鸞として仰いできたことに間違いがあるのか。どちらか決着をつけなくてはならない問題ではないでしょうか。そうなると親鸞自身が書いているのですから、本人が書いているものをなじまないと否定していく方にやっぱり無理があるのでしょう。なじまないという思いのほうを翻していくと、そこからどういう親鸞像が誕生してくるのか、そして、その誕生してきた親鸞像から逆に見直すと、なじまないといわれて仰がれてきた親鸞像にはずいぶんと大切な点を喪失させられた虚像ではなかったかということがうかがわれてきます。
こんなことを申しますのは、愚禿釈という言葉の使い方もさることではありますが、『教行信証』全体のなかに五回しか使われていないこの言葉の中で中核的な事柄というのは一つしかない。それは「釈」ということです。仏弟子をあらわす称号です。しかし、仏弟子を名乗る者が仏教を明らかにしえなかった歴史を踏まえて仏弟子とは何かを問うていったときに、愚禿釈という新しい仏弟子の名乗りが生まれ、初めてその名乗りに自らを位置づけた、その人によって初めて浄土真実教行証を、教行証とは仏教ということですから、浄土真実仏教を開顕することが可能になるのです。これは当然の筋なのですけれども、その愚禿釈が『教行信証』のなかでもきちっと位置づけられているにもかかわらず、愚禿釈が実に弱々しい形に、感覚的になっているのではないかと思うのです。この弱々しいところが「ありがたい」となっているのではないかという気がするのです。
熊皮の御影を不気味なお姿だと、あの前でじっと座っていると胸が悪くなるといわれた方がおられました。それほどのすごさがあります。わたし自身も、複製ではなく本物が展示されたときに会場で、それを見たときの感じが、最近のような親鸞へのかかわりを見いだした一つの大きなきっかけなのです。とにかくそうした実感は消されてきました。例えば親鸞聖人がご自分で意図して書かしたと思われます、安城の御影のややこしい調度品の配置の描写を見ましても、あれは親鸞聖人自身があの小道具を集めてきてご自分の実在性をはっきりさせようとして書かせた肖像画だと私は思います。それを専信房専海に渡して関東の同朋のところへ届けるわけですね。専信房専海というのはご承知のように『教行信証』の書写を許された方です。あの安城の御影と『教行信証』の最初の公開ですが、その前に一度写させていますが、それは私は私的な事柄だと思います。だから現在の高田専修寺に所蔵されている高田本の元本になるものではないかと思いますが、それが最初の公開だと思います。
専信房専海という人は高田専修寺の開基であります真仏のお弟子筋に当たる人ですから、当然後の関東教団の長のような役割を果たすところへ持っていくべき物であったと思われます。とすると、あの絵も関東の同朋の人たちの手にわたって十分にうなずいてくれるに違いないという思いを込めて、八三歳の親鸞が自分の肖像画を書かせたのだと思います。わたしはその辺りから類推するのですが、関東の同朋にとっては、自分たちが別れた六〇歳以前の共に悪戦苦闘したといってもよい親鸞の姿と安城の御影とを比べたとき、どうも違うような気がするという実感があって、やがて熊皮の御影を生み出したのだと思うのです。ですから熊皮の御影のなかで要らない物はみな外されています。ところが要るものは誇張されていますね。タヌキの毛皮といわれていたものが熊皮に、前においてあったつえの位置がひざ元へ引き付ける形に変わっています。わたしはそれも、偶然にそうなったのではないと思います。
私は、やっぱりお顔立ちでいうならば鏡の御影でありますとか安城の御影の方が間違いがないと思いますが、それらをも否定して、熊皮の御影のお顔が関東の同朋たちにうなずかれていた親鸞、そういう印象として刻み込まれていた親鸞として描かれたのだと思います。
皮の上に座るということですが、民族学での確かめが必要な所です。「かわほっし」とか「かわしょうにん」「かわひじり」といういい方もあるそうですから、親鸞だけの事ではないはずです。しかし、そういう熊皮をひいて、あるときにはむちのような武器になると思われるつえをひざ元にぐっと引き付けて、前方をにらみつけているお顔立ちの親鸞が、関東の同朋たちのなかで共に生きた親鸞だったということが思われるわけです。私はそういう積極的な自分を愚禿釈と名乗ったのだと思います。今日のありがたい親鸞、つえも毛皮もなくなって半畳の上に端然とお座りになっておいでになるお姿、あれも元は安城の御影から出発し、そこからずいぶん外していって残ったものなのですが、それを必要としたのは浄土真実教行証を開顕するためではないでしょう。そうではなくて、やはり本願寺聖人という位置を持った権威ある聖人を必要とする要請が、そういう親鸞像を作り出したのです。そのこと一つを取り上げても、愚禿釈という名乗りを明確にした親鸞聖人のお気持ちに十分沿っているとはいえないといわなくてはならないのではないでしょうか。

愚・禿・釈の教学の見届け
聖人の残されたもの、あるいは聖人についてのお書き物の中から、特に「愚禿親鸞」「愚禿釈親鸞」という名乗りがどういう意味を持つのかということを、私たちに教えてくれている文章は幾つかあります。そんななかで愚禿については沙弥であるという感覚が一般化しているように思われます。「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」というお言葉が『改邪鈔』の中に出て参ります。
愚禿釈の名乗りは、存覚が『六要鈔』で語っているように、本来は智者であって、あえて「卑謙の詞」を使っている、ということではない。大胆にいってしまうと、今日に至るまで感情の底で、どうしても愚禿釈という思想の成立基盤と私がいっておりますことが消極的にしか受け止められない状態の中で教学の営みもなされてきたのではないかと思いまして、愚・禿・釈、この三つの字がどのような事実確認として押さえられるのか、そしてその事実確認についてどのような了解が示されてきたのか、その了解がどのような親鸞像を再形成したのか、ということをまず資料にあたって見届けていかなくてはいけないと思います。