第一講

第一講(一九九〇年八月二七日)

はじめに
富山教区の皆様が「正信偈」の学習会を発起されたのですが、私が今回までにこちらの学習会に声をかけていただくたびに、その学習会のテキストはいつも「正信偈」なのです。そんなこともあって、こういうおたずねの仕方は失礼なのかもしれませんが、なぜ富山では「正信偈」なのかとお尋ねして、それに答えて欲しいといった思いがあるのです。こんなことは聞く必要はないことであるといわれるかもしれませんが、いつも「正信偈」ですので、そのことについてどこかで確かめをしていただきたいという気持ちがあるのです。それについてのご返事をお聞きしてからでないと、今回はことにお話がしにくいのですが、昨今思っておりますことを、ともかくお話しいたしましょう。

親鸞と被差別民衆
私にとってはまったく思いがけないご縁だったのですが、昨今、部落問題ということに関係をするということが具体的に起こってきました。そういう被差別部落の人々との関係を通して、いままで私が学んできた親鸞観とは全く違う親鸞観というものを、その人々は確信的な生活感と重なる実感として、もっているということを驚きをもって知らされているのです。どうしてそういうことになったのかわからないのですが、この事実は私にはショッキングなこととしてありまして、その理由を知りたいと考えまして、部落史の問題とか部落の起源の問題とかをいろいろな先生の書物や話を通して教えてもらったりしているのですが、なかなかはっきりしません。ただそうした中で、河田光夫さんが『親鸞と被差別民衆』という発表をされて、親鸞と共に生きた人々は被差別民衆であった、その場合の被差別民衆ということをどのように押さえていくべきかという明確な方向づけをしてくださったことは、私にとって大きな問題提起でありました。そうした問題提起を受けて、改めて本願寺教団の状況を見てみますと、そういう視点からの親鸞の教えについての確かめをするということはほとんどなかった。ある 意味ではそういう視点に立つことはタブーとして伏せられて今日に至っているというのが教団の実情ではなかったかと思います。
素朴に考えて、時代区分的に親鸞の頃までさかのぼることはしばらくおくとしましても、被差別民衆が徳川幕藩体制のなかで作られた身分階層制の下で「穢多・非人」として位置づけられ、それが新たな国家体制として構築された近代の日本国家体制の中で新たに位置づけられてくる部落民とか新平民とかいう賤称を生み出してくる苛酷な差別状況のなかで、親鸞の教えを正統に聞くということは困難であったはずです。徳川時代には徳川時代の教団が作り上げた親鸞像というものがあり、近代には近代が作り上げた親鸞像があって、そういう親鸞像が教えられていくということはわかるけれども、そういう枠からは決して教えられるはずのない親鸞に、その人たちは触れているということを実感させられるのです。
いま私の心を強く引きつけていることは、そういう親鸞像を誰から聞いたのだろうかとか、どんな客観的状態の下で聞いたのだろうかというようなことよりも、むしろそうした親鸞に遇っているということは、被差別部落の人たちの生き方そのものが、鉱脈の中から宝石を発掘するようにして、そういう親鸞像に出会ったのではないかというところにあるのです。それは、それまで全く無知であった新しい親鸞像を知らされたということで、ショッキングな出来事でありました。そういうショックを受けると同時に私は、百年に近い徳川幕藩体制を成立せしめ続ける最も積極的な要因となった日本独特の身分階層制度、つまり「士・農・工・商・穢多・非人」という国家統治権力維持の封建体制と壇家制度、寺請制度とが一緒になって動いていく中で、浄土真宗という仏教教団がどんな役割を果たしてきたのか。あるいは徳川時代が終わって明治時代に入ってからの全く性格の違う日本国家形成の中で、やはり新しい役割をかなり積極的に果たしながら、絶対天皇制国家体制構築に手を貸しながら存続してきた浄土真宗教団、なかんずく本願寺教団とはいったいなんだったのだろうか。そのことを自分のなかで はっきりさせなくてはならないのではないかということを、積極的に問い掛けられているという実感を持っているわけです。私自身が問い掛けられていると実感しているわけです。
近代の教学とこう申しますけれども、明治の日本の著名な文学のなかに島崎藤村の『破戒』がありますね。『破戒』は一九〇四年に書き出され、一九〇六年に発表されています。つまり日露戦争のただ中で書かれたのです。確かに今日部落問題の中では賛否両論のある小説です。主人公であります丑松が最後に外国へ逃げていくという形で終わっていますので、積極的に部落問題を方向づけるような小説ではないという評価もありますし、そういう評価も一面正当なものだと思います。しかしあの当時『破戒』という戒を破るという名前で、つまりその当時の日本人におけるタブーとされていたことを破るという名前を積極的につけて、被差別部落出身者であることを生徒の前で語っていくということを中核として書いた小説ですから、その当時かなりの人があの小説を読んでいたはずです。にもかかわらず、その『破戒』のなかにそういう問題が示されているということに、個人としてどういう関心をいだいたかわかりませんけれども、本願寺の教学、教化、教団全体が全くといってよいほど、そこに何があるのかということを見ることがなかったように思います。ということは、そういう一人の文学者であ り、かなり時代の節目をそれなりの限界ぎりぎりで問うたといってもよい島崎藤村の書いた、当時でいうならば勇気のいる小説、それ自体が全く不問にふせていくという体質ですね。これは何なのだろうかということが気になるのです。しかも事実はご承知のように、被差別部落の八〇%ないしは八五%の人々が東西両本願寺の御門徒であるということは厳然として今日も変わらないわけです。そうすると徳川時代からずっと、壇家制度ができたときからずっと今日まで一貫してみますならば、世襲という形をきっちりと教団で容認されるおおやけの事柄としてはっきり打ち出してきた本願寺教団は、同時に世襲的に被差別の民として日本の国の中で排除された人々を積極的に被差別の状態のまま、六〇〇年そのままの門徒としてきた体質がある。しかも門徒としてきたのですから、親鸞の言葉をお借りしていうならば「ともの同朋にもねんごろに」という言葉を本当に使うのが浄土真宗門徒の人間的かかわりの素朴な感情だというならば、まったく逆にとも同朋に不ねんごろであったといわざるをえない。そういう教団人として私たちはこの民主主義日本の真っ只中でも同じように不当な差別状況におかれている 同朋に対して心が動かないままである。こういう私たちの体質は浄土真宗に帰する門徒のそれなのでしょうか。

問い直しを迫られる教学
そういう具体的な現実を見ないで浄土真宗教団がちゃんと存続してこれたということはどういうことなんだろうか、したがって存続を許容することのできた教学とは一体何だったのだろうか。そういう教団存続ということを是とするような教化がなされてきたとすると、その教化は排除される人々の中ではどのような作用をしたのか。こうしたことは当然問わなくてはならないことであり、また問うことによって親鸞聖人の教えそのものに傷が付くことはありえないことだと薄々はわかっていたはずなのです。最近は「いしかわらつぶてのごとくなるわれら」という言葉を中心にして、「凡夫というはすなわちわれらなり」という言葉などによって、「われら」とよんだ人々と共に同朋とうなずきあって浄土真宗を明らかにしていったのが親鸞聖人であるとどなたもおっしゃるのです。おっしゃるわけですけれども、それが具体的現実的な確かめとしては、現存する排除の事実に全く積極的なまなざしが向いていかない。これはどうしてなのかなと。それ以上は私は考えを整理しておりません。整理ができないということも正直にはありますけれども、そう単純には整理してはいけないなという感じもしている のです。
浄土真宗の教化というのは徳川時代から今日まで、だいたい蓮如の『御文』が軸になった教化ですね。そして『教行信証』を一般には読まないということを前提とした教化ですね。そうした流れの中から異端児のように明治以降『歎異抄』が読まれたということで混乱を起こしたのが真宗の教化でしょう。とすると蓮如上人の明確に方向づけをした教化体制というものを軸にしながらその奥に親鸞をおいて語っていくという形ですすんできたわけです。そうしますと今の被差別部落の御門徒だけがストレートに親鸞の魂に触れるような教化を受けていたと考える筋はなかなか見つかってこない。しかしある意味でかなり強固な体制をとりえた東西両本願寺教団の下に推し進められてきました教化体制からも疎外される形であったがために、逆にその体制の穴をかいくぐるようにして親鸞に触れることになったのかもしれない。
ともかく私にはかなり違う親鸞像を大事にしておられるということを強く思います。そこであっさりいいますと、どっちが本当の親鸞に会っているのか。少なくとも私が学んできた親鸞像とは違う親鸞了解を持っているのは偶然なのだろうかということです。
私なども「いなかのひとびと」、そして「いしかわらつぶてのごとくなるわれら」と親鸞がいったことについては、まさにいしかわらつぶてのごとく生きた人々であるに違いないという観念は持っていました。しかし、その観念の具体性はほとんど見えていなかったのではないだろうか。そうすると関東の教団とか吉水の教団とかを考えるときの考え方も、全くどこかで転換をしないと浄土真宗も浄土宗の独立も弾圧の必然性もわからないのではないだろうか。
部落差別の問題を今ここでお話しすることが必然的に筋の中で位置づけられるとは思いませんけれども、そのようなことを通しながら一度浄土真宗の教えといわれている事柄を、親鸞聖人はなにを語ったのだろうか、親鸞聖人が語った言葉はどういう事柄を我々に教えているのだろうかと問い直しをしなくてはならないという実感は持ち続けているのです。

「正信偈」の難解さ
ところで「正信偈」は難しいですよ。
私はよくわからないのです。それはいくつかの要素を「正信念仏偈」という偈文が持っており過ぎるという感じが私にはするものですから。確かに浄土の三経を中心としてその教義を偈頌の形をとった部分と七高僧のそれぞれの中核として位置づけるべき事柄を偈頌としてうたい上げた部分と、つまり依経分、依釈分といったふうに大きく分けて了解をする、二つの部分に大きく分けることができるということに間違いはないと思いますけれども、その両方共が「応信如来如実言」の一言と、「唯可信斯高僧説」という言葉とで押さえられている。とすると依経分・依釈分のどちらも信ずべし信ずべしという勧信をもって押さえきられている。言い換えるならば、「大聖の真言、大祖の解釈を信ずべし」といい切った偈頌です。そういう意味では、そういうふうにいい切った偈頌が持っている能動性をどういうふうに我々は受け止めるべきであろうか。ただずっと浄土三経のエッセンスを列記して、こういう経典が所依の経典だから信じなさいといった話でよいのだろうか。あるいは七高僧として親鸞が決定をした先哲が明確に浄土の仏法というものを位置づけた言葉をずっと羅列しておくからそれを信ずべし と呼び掛けているのか。ならば、そういうことを信ずるとはどういうことなのか。こういうことが私には問題になってくるのです。そういうことになれば、信を勧めることに応答することができるような人間が誕生しなければ「正信偈」は意味がないことは明らかですね。如来如実言を信じろというのですし、ただ高僧の説を信じろと呼びかけているのですから、そういう親鸞の呼び掛けに応答するという事実がなければ何の意味もない。そうでないと一つのキャッチフレーズみたいなものですね。『教行信証』六巻の中で親鸞自身が偈頌として書いたのはこの「正信念仏偈」一つですから、たんなるキャッチフレーズといいますか、一番要約されたキャッチフレーズということになりますし、それをもって信を勧めることになる。それに応答できないとすると親鸞の「正信念仏偈」というものは何の意味も持たないということになりはしないだろうか。とすると信ずるということはどういうことなのか。その信はどういうことになってくるのか。『教行信証』のなかに位置づけられておりますから、勧信ということを軸にして「正信念仏偈」は読まなくてはいけない。でないといわゆる三経七祖の要点だけを抽出 して列記した一つのエッセンスの表現だということだけで事が終わっていって、よくまあこんなに簡潔に要領よくまとめたものだなあと感心する程度で終わっていくのではないかという気さえするのです。そうすると「応信」とか「可信」とかいう言葉で依経分、依釈分両方に押さえているという限りにおいては、信を勧める親鸞が信を勧めるということを主題にしていい切った文章、それが「正信念仏偈」だというべきでしょう。ですからそこにははっきり「正信念仏偈」を書く親鸞が、自らに与えられた資格、したがって責任を深く自覚している。そういうことを私たちは「正信念仏偈」を通してうなずいて、そのような親鸞にあわないとどうにもならないのではないだろうか。それが私には大きな問題なのです。と同時にそのことは、もう少し具体的なところから見ますならば、『顕浄土真実教行証文類』という顕浄土真実教行証という非常に明快な課題、教学の内容が何であるか一目瞭然でわかるような事柄を題目とした『教行信証』のなかに「正信念仏偈」はあるのですから、そのなかでどのように位置づけられていくのか、ということもそう簡単な話ではないのではないかと思うのです。そんなことも 含めまして、みなさんは「正信偈」の学習会をなぜおやりになるのですかとお尋ねしたい、お気持ちを聞かせて欲しいなという思いがあります。それと同時に私がこれまで申しましたような、私の個人の経験を通して申しましたような、真宗の教学を決して人間の単なる個人関心としてではなく、人間の本質に迫るような課題として見直していかなくては収まりがつかなくなっている今日の状況を思いますとき、これは容易ならざることだなという気がしているわけです。
難しさの意味
前半は最近の自分の気持ちの中に、かなり具体的な課題として出てきている事を軸に据えて、自分なりに整理をしてみたいということもありましてお話をしたわけです。決して同和研修会のつもりでお話をしているのではありません。事柄として浄土真宗の教学そのものを一度確かめていかなければならなかったのではないだろうか。したがって、確かめなくてはならないような歩き方をしてきた真宗教団の歩みまで、全部内に包みこむようにして確かめていかなければならないのではないか。そうでないとはっきりしないのではないか、ということを申したかったのです。それは誰がしていかなくてはならないとか、誰の責任だとかいうつもりは私にはさらさらありません。気がついた者がやっていかなければならない事と、そのようなつもりでお話ししたのです。
幾つかの問題があろうかと思いますけど、私はたまたま、人間排除の問題、なかんずくその最も具体的な、そして人為的な差別の問題にかかわってやっと気づかされたということがありますので、それも縁ですから、縁を通して気づいたところから外の事柄が見えてくるか見えてこないかということでして、あれもこれもというわけにはいかないということもありまして、その点にある意味で固執することになるのかもしれませんけれども、これからはずっと、私の中で確かめをしていくことにしていきたいということを申し上げたのです。
ところで、先程の話の一番最後に「正信偈」は難しいと申し上げました。確かに難しいです。難しいのですが、「正信偈」が難しいというよりも、難しさには幾つかの意味があります。先程、私が申しましたような、三経七祖を総括して、それを極めて短い二行四句、三行六句、四行八句といった短い言葉で、きちっと押さえてしまうということをやっておられますから、言葉が短ければ短いほど難しいわけです。すぱっとうなずけませんとうなずきが言葉を曖昧にしていってしまって明瞭にしていかないのです。本来明瞭な言葉なのですから、明瞭な言葉を解釈すると明瞭でなくなっていく、これは常識だと思ってもらって結構です。そうだとしますと、そういうふうにならないで、しかも親鸞が信を勧めるということを明確に打ち出した形で表現した『教行信証』全体の課題の中での「正信念仏偈」という偈頌のもっている意味、というような事まで一度具体的に考えていく必要があるという気がするのです。今日はそんなことを少しお話ししていこうと思うのです。

『日蓮論』
私は「顕浄土真実教行証文類」というこの題は、実に明確な問題意識をもって、しかも明瞭にすべきことはこのこと一つということをはっきり題名に示した仏教書としては、あまり他に類を見ないのではないかと思います。当時の鎌倉仏教の道元禅師の『正法眼蔵』にいたしてもあるいは法然上人の『選択本願念仏集』にしましても、鎌倉時代の祖師たちの仏教学の営みを表現している書物は、何を書こうとしているのか曖昧だという題は一つもないといってよいと思います。ですけれども親鸞の『顕浄土真実教行証文類』ほど、内容まで透視できるとは申しませんけれども、明確な課題を背負って書かれた教学の書というのはないのではないかという気がするのです。例えば、非常に特徴的に比べるのですけれど日蓮上人の『立正安国論』、これも非常にはっきりしています。考えなくてもわかるほどはっきりしているのではないですか。正法を建立するということが仏教者日蓮の願いです。正法を建立することによって日本という国が安らかになるんだ、正法の建立を抜きにして日本という国は安らかにならないのだということを明らかにしようとします。
その立正安国という題だけではなくて、今日の政治にかかわる宗教集団の多くが日蓮上人の系統から生まれてくる傾向がありますね。それも、こそこそと政治にかかわりません。堂々と政治にかかわります。名前をはっきり上げますと、立正佼成会にしましても創価学会にしましても、宗教者は政治ということを超えているという顔をしながらかかわっていくという卑怯なことをしません。やっぱり公明党というような政党をきちっと作って、国を安らかにするということを日蓮大上人がいった、その願いに応答するのだ、そのことによって正法を建立するのだということを現実の中で具現化していきます。べつにわたしは立正佼成会や創価学会に転派したわけではありません。けれどもその明晰さはすごいといった感じがします。そこまで明晰にいい切ることの自信を感じます。ついでに申しますけど、『曽我量深選集』の二巻目に『日蓮論』が出ております。ご承知だと思いますけれど曽我先生の四つの大きな論文集があります。あれは金子大栄先生が編集主任になって編集されたものです。それを今出ております選集にいたしますときに編年体で全部組み直したわけです。ですから曽我先生の一番初期の ころに書いたものから、四論文集として定着していることにあまりとらわれないで、組み直していったわけです。ですからだいたい年代順に内容が組まれているわけです。ところがその二巻目に収められている論文のなかの『日蓮論』というのは、金子先生が編集されたときにははずれていたのです。しかし編集部の皆で相談しているうちにどうしてもこれから始めないと曽我量深という先生の思想の出発点にある精神的な方向性、別の言葉でいうとある高揚した精神というものが読み取れないのではないだろうか、それが読み取れないと後の論文がただ難しい言葉の羅列と取られがちではないかという論議がありました。『日蓮論』はかなり長い論文です。だからあのとき無理にでも曽我先生にお願いして、結構ですという返事をもらわなかったなら、世に出なかったかもしれないとさえ思います。その『日蓮論』の中に、これは一度お読みいただいたほうがよいと思いますけれども、こんな言葉があります。『日蓮論』の中では日蓮上人をいわゆる誹謗しているのではありません。むしろ日蓮上人が、法然、親鸞が明らかにしようとすることを全く違う角度からじつは助顕しているのだと、そういう姿勢で書い ておられるのです。そのなかで、日蓮上人の当時の鎌倉幕府の執権に対する行為にも触れられていく中で仏教というものは超倫理、超国家という性格を持っていなくてはならない、ということをはっきりいい切っておられます。そして超倫理、超国家的宗教ということと、反倫理、反国法的宗教ということとは似て非なるものである。宗教は倫理を越える、あるいは宗教は国家を越える、国家のために随順するのではない、これは明らかなことだ。超倫理、超国家が宗教の宗教たるゆえんである。しかし超倫理、超国家の宗教は反倫理、反国法の宗教とは似て非なるものである。ここまでで終わっていますと、たいてい皆さんもうなずかれるのでしょうが、その次に曽我先生は、似て非なるものではあるけれども酷似したものである、したがって、超倫理、超国家の宗教という性格を明確にするためには、反倫理、反国法的態度を取らざるを得ない。こういう言葉があるのです。前後がありますから、前後から読み込んでいってもらわないとそれだけ抽出していいますとなにか私が強調しているように思われるかもしれませんが、しかしかなり明確な一つの問題提起があるわけです。やはり仏教というものは、仏教 が仏教であるゆえんの根拠は何であるか。根拠からその性格をおさえるとしたら、倫理を越えている、したがって倫理の下僕にならない、国家を超えている、したがって国家の権力の下僕にならない、むしろ国家も倫理も人間の世俗のうえの約束事以上ではない、したがって、仏教が真に仏教たるかぎりは、国家も倫理もその仏教に従ってそれぞれの役割を果たすべきである、と述べておられるのです。

「カンガウ、サダム」
この考え方は、じつは親鸞聖人の『教行信証』の重要な軸であったわけです。とくにその軸を親鸞聖人が具体性をもって明瞭になさったのが「顕浄土方便化身土文類」です。「顕浄土方便化身土文類」の、なかんずく本末二巻に分かれていると見られる今日の了解でもうしますと、その本巻の終わりに『末法燈明記』をおいて、末巻の始めに
それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、涅槃経に言わく、仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ、と。
こう書き出しますね。あの書き出しは、ご承知と思いますが、「それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決」するというのですから、真実であるか虚偽であるかということをもろもろの経論によって「勘決」をする。あの「勘決」という言葉は「顕浄土方便化身土文類」の本巻の終わりのほうに出てくるのですけれども、そのとき「勘決」という言葉に「カンガウ、サダム」という左仮名がつけられています。思索を尽くして決定する。そういう了解を示しているのです。
偏見と予断で決定するのではなくて思索を尽くして、考えを尽くして定めるのだと。そういう意味では、もろもろの修多羅によって真と偽とを、仏教を名乗る事柄のうえに考え定めて、外教邪偽の異執を教誡する、と、こういうふうに親鸞は読みません。「する」というのならば、それは一つのテーゼと申しますか、一つの主張をまずおいてそれから後に幾つかのことでその外教邪偽の異執を教誡するという文章形態をとっていくはずです。そして当然後のほうの『般舟三昧経』ですとか、『大集経』などの長い文章がずっと引かれていますけれども、このあたりはそういう意味では修多羅によって引かれているわけです。ところが一番最初の『涅槃経』に関しては、これは「如来性品」の言葉ですけれども、親鸞の読み方では
外教邪偽の異執を教誡せば、涅槃経に言わく、仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ
と、こういうふうになっています。だからこれはたんなる引用の文章として『涅槃経』の文章を引いたのではないということが読み取れるわけです。「教誡せば、涅槃経に言わく」というのですから、逆のいい方をしますとその教誡の主体は何かといえば『涅槃経』なのです。『涅槃経』という経典の事をここでいっているのではなくて、釈尊の入涅槃の言葉である。釈尊の入滅の遺教である。こういう文章構成の常識を越えるような、一見無理と思われるような書き方は『教行信証』のなかにたくさん出てきます。
親鸞は承知のうえで、これは『涅槃経』にこう書いてあるという説明としてここに置いたのではないのであって、涅槃の遺教はこういうことであったのだ。釈尊はいろいろなことをいわれたが、一言で真実か虚偽かということを、かんがう、さだめる、ということになってみると、その視点から見直してみると、外教邪偽の異執を教誡することになると、最後に釈尊がいいたかったことは何だったのかというと「仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ」、これだけのことであったのだ。仏に帰依してまだ他の諸天神にもついでに帰依したほうが得するであろうという発想は許さない、と釈尊は遺教して逝かれた。その遺教に立つのが釈尊入滅の後に生まれた仏弟子の姿勢なのだと、見定めをされるのでしょう。

親鸞の思索
親鸞は正当な学問はしなかったのではないか。『教行信証』を見ると漢文がでたらめでありすぎる。こういう批判を時折聞きます。
しかし、そういう発想が、実は親鸞が九〇年かけて明らかにした思想をじつは曖昧なものにしてしまったのです。加えて申しますならば、親鸞が無茶苦茶な読み方をしているから、これはいけないから今日我々がきちっと原典で確かめている読み方に書き換えなくてはならないと、どんどん書き変えています。
近代あるいは現代といわれる時代の学問には全体的に、逆に言いますと、現代の無知に迎合していくような傾向があると思います。それは仏教の経典翻訳についても同じことがいえると思います。そんな目で『教行信証』を読んでも読めません。ですから「顕浄土方便化身土文類」の末巻は、今日までだれ一人として一番最初から最後まで親鸞が読んだとおりに読んで了解を述べている人はいないといい切ってもよいと思います。しかし私も読んでもわからないのです。どうしてこのように読んだのだろうかという疑問ばかりたくさん出てきます。どうして親鸞はこのように読んだのか、と私が疑問に思うところは他の先生方も疑問に思うのでしょう。ところがそう思った時に、今日見ることのできる同じ書物を置きまして、親鸞の頃は完璧な形の書物が入手できなかったので、やむなく親鸞は不完全なものをもって文章を書いたのだろうと直してしまいます。私はそういう態度に対していうのです。たとえ間違っていても、原本を間違えて、それしかなくてそれを読んで書いたとしても、書いてしまったかぎりは、書いたように親鸞は思想していたに違いない、とまず考えることが大切ではないか、とね。
つまり、親鸞の思索を大切にするのか、それとも原典が今日ではきちっと整備されているからそちらに返して了解する事のほうが正当だと主張するのか。これは『教行信証』に関しては私は近代仏教学と対決してもよいと思っているのです。基本的には私が考えることのほうが、極めて単純な意味で常識だと思います。

「後序」か「流通分」か
ここにいたしましても
「もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡」するといわないで、「教誡せば」。教誡せば『涅槃経』にこのように釈尊は語っている。「仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ」これが釈尊の涅槃の時の遺教である。そういい切っているはずですね。そしてこの言葉が「顕浄土方便化身土文類」の末巻の一番最後の言葉といわれています、『論語』の「先進篇」の言葉ですが
季路問わく、鬼神に事えんかと。子の曰わく、事うることあたわず。人いずくんぞ能く鬼神に事えんやと。
ここで末巻が終わっているとわたしもいってきましたし、多くの方々もそういっています。それから後が後序だといっています。わたしは最近、もう少し『教行信証』のなかで序という言葉の使われ方を確かめませんと、後序ということが平然といえないのではないかと考えております。なぜかといいますと、もし『教行信証』のなかに序という言葉が一番最初の「顕浄土真実教行証文類序」ひとつしかないのならばいえないこともないのです。一番最初に序を置いて、ずっと文章を書いていって、一番最後のところは別に抜文とも後序とも書かないで結びの言葉にするという方法はいくらでも先輩の漢文の中にあります。近いところで『選択本願念仏集』でもそうです。あるいは『観経疏』にしてもそうです。「ひそかに以みれば真宗遇いがたく」という言葉からは、どうしてもこれは文章の流れが変わっていきます。だからこれは一番最後に全体を結ぶ言葉として置かれたのだということはいえるのですけれども、『教行信証』に関してはもうひとつ「顕浄土真実信文類序」と親鸞がいい切った序があります。とすると、『教行信証』のなかには一番最初の序と信文類の序と二つ序という言葉があるわけです 。とすると、この二つの序が同じような質の事柄を明瞭にしているといたしますと、親鸞にとって序という言葉は、一番おしまいに書いてあるから後序だと、こう簡単にはいえないと思うのです。やはり同じような質のものを後のところでも見つけたときに後序と称すべきかどうかを確認すべきだと思いますが、それでもそう簡単にはいえないと思うのです。親鸞自身が序といっていないのですから。
だから私は今は後序とはいいません。あえていえといわれるならば流通分といいます。流通付属の文といいます。それも「あえて」という段階を出ません。なぜかと申しますと、先程、申しました
論語に云わく、季路問わく、鬼神に事えんかと。子の曰わく、事うることあたわず。人いずくんぞ能く鬼神に事えんやと。已上抄出
で端を改めて
ひそかに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の証道いま盛なり。
と『真宗聖典』では文章を切ってありますが、これは充分考えを尽くしたうえでやらねばならないことだと思います。なぜかともうしますと、親鸞の真筆本が残っています。真筆本は一息でそこを了解しなくてはならないところは、ずいぶん長いところもずっと一息で書きます。ところがこれは改めて主題を展開していくのだというときになりますと、わずか数行でも改行します。ですから『教行信証』というのは油断のならない書物でして、その了解ひとつで、親鸞が主張する中身まで、我々が読みちがえをするかもしれないという事があります。そういう意味では、本当に『教行信証』を読もうとしますと、この聖典のようにいくつも行替えをされますと、読めなくなってきます。

「人いずくんぞ能く鬼神に事えんや」
しかし、『論語』の言葉で結ばれて、そして「ひそかに以みれば」から後序の文だということに、私がかなりこだわって抵抗しておりますのは、序の問題の理由からだけではありません。『論語』の言葉から後の、『教行信証』のなかでは唯一の具体的な事実を記述することによって、『教行信証』全体の事柄を結実させていって、後に伝達していこうとする。ですから私は流通分というのですけれど、この文章と『論語』の言葉は無関係だと見て、それから後序が始まるとは私はすぐには思えません。むしろ後へずっと事柄が続いていく一つの大きなキーポイントになるのが、この『論語』の言葉だといいたいのです。
もともと『論語』の読み方によりますならば、
季路、鬼神に事うることを問う。子のたまわく、いまだ人に事うることあたわず。いずくんぞ能く鬼神に事えんや。
ですから季路というお弟子が、鬼神にどのようにして仕えるのが一番正しいのですかということをたずねた。それに対して孔子は、人間は人間にさえも十分に仕えることのできない存在である。そういう人間が、超人間的な鬼神にどういうふうに仕えたらよいのかと、たずねることそれ自体がとんでもない質問をしているのだという意味の、教え戒める言葉です。
それが、ここでは「季路問わく」、季路という一人の人間というより、私はこれを「人」と置き換えて読みます。「人問わく、鬼神に事えんか。」こう読みますとね、人間というものはいつもたずねている。いろいろな形でたずねているけれども、そうした問いの根にあるのは、この問いではないか、という意味として読みます。
今日の宗教状況をご覧になれば、鬼神が何であるかすぐおわかりになると思います。だから人間とは何か。あえていえば鬼神に仕えることを尋ね続けておびえているのが人間でしょう。それに対して「子の曰わく、事うることあたわず。」この場合も孔子でなくてよいのです。むしろこれは仏教です。「子」を思い切って「仏」と置き換えます。すると「仏の曰わく」、仕える必要はない、人間がどうして鬼神に仕えることができようかという答えになります。これは確実に、深い意味での人間の存在の不安を完全に除去し解放して、人間という存在の尊厳を明らかにするという言葉になるわけです。しかし、そうした趣旨を表す言葉ならば、わざわざ『論語』の文章を読み替えてまでしなくても、仏教のなかにいくらでもある言葉でしょう。つまり、そういう言葉を最後に置こうと親鸞が思うだけならば、『論語』を引っ張ってこなくてもよいはずです。
しかし、親鸞は仏教の言葉を使わないで『論語』の言葉を使っています。このことは『教行信証』のなかでの一つの謎となっていたのでしょう。そのことについて私なりに気づいたことがあるのです。それは人間を具体的に呪縛する原理として働くものが儒教だということです。

倫理道徳と仏教
先日、退官の直後に西安へいきました。西安に有名な、『論語』の全文と孔子の像とが石に刻まれている石碑がある碑林という所があります。例の北京の天安門で大衆運動が起こったころ、西安でも西安の天安門運動と呼ばれる運動が起こっているのですが、その碑林へ案内してくれた人が、その運動にかなり過激に参加した人だったのです。その人がたまたま『論語』の石刻のところで、「あなたがたもこれは読めるでしょう。だからこれは説明しません。」といって、そして最後にこのようにいいました。「この論語の言葉、孔子の儒教はいつの時代にも中国の国家権力を正当化し、民衆を抑圧してきた原理なのです」と。
それを聞いたとき初めてわかったのです。親鸞が明らかにしようとしたのは、超倫理、超国家の仏教が浄土真宗であるということを明瞭にすることが、当時の権力の下あって、いしかわらつぶてのごとく扱われている人々によって大乗の至極と証明される仏教が明らかになる唯一の事だと。もし倫理に、人間が人間を拘束することを正当化していく道徳に、あるいはその道徳によって人間を押さえていこうとする国家体制に従属していくものならば、それはもはや仏教ではない。こうしたことを親鸞はいいたかったのです。そのためにわざわざ最後に、文意だけで見るならば、わざわざ引かなくてもよいと思われる『論語』の文を引き、訓読ひとつで文意をひっくりかえして、『論語』、つまり儒教が、実は人間を呪縛し、人間解放の方向を阻害する要因となっていったのだといいたかったのだと思いました。
倫理道徳に毒されている仏教、それが親鸞の見据え、訣別した仏教であったのだとやっとわかったのです。わかったときに、曽我先生が二九歳のときになぜ『日蓮論』の中であのようなことを書いたのかということも、問いになって出てきたのです。ただそういうことを思いますと、従来、この『論語』の言葉のもっている重さはほとんど十分に読まれていませんでした。むしろ、付録的にしか読まれていませんでした。もし最後の言葉が『論語』であるとしますならば、その事に問いぐらいたててもよかったはずですね。それさえも持たない教学とは何なのでしょうか。こうしたことを考えますと、道徳を超えるということは何なのかといえば、人間が人間を支配し、人間が人間を疎外し、人間と人間との関係の世俗的調和を図っていくようなそういう事のために役立つ、そのことから人間を解放しなければ、人間の生き方が千差万別である限りにおいて万人が平等に救済されるということは夢のまた夢になってしまうのだと親鸞ははっきりと見届けたのだと思います。
実に親鸞の顕浄土真実教行証という教学の営みというのはすごい営為だと思います。これだけ徹底して仏道は仏道であって、仏道以外のものには決して代替できないのだ。もし代替しようとするなら、外教邪偽の異執だ。だから教誡しなければならないのだ。「仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ」、これが仏陀の遺教なのだから、それに正直に従う仏教徒ならば「人いずくんぞ能く鬼神に事えんや」といい切れて初めてそうなれるのではないですか。こうしたことをはっきりと知っていくという意味では、親鸞の『教行信証』は主題が明白だともうしましたが、その主題を明白にするという意味では、涅槃も真如も一如も法性も大事でしょうけれども、そういう事柄の大切さを基礎づけているのは何かと申しますと、仏教が仏教であるということを具体的にどこで押さえるかという一点でしょう。それは非常に具体的な事であるがために見えにくい。いうならば、今日なら今日の定められた道徳の下に支配されているということに気づかない、したがって支配されていることがより良きことであると慣らされていることにも気づかない、こうしたことが人間を失っている事実なのです。そう いう意味では「人いずくんぞ能く鬼神に事えんや」という読み替えをわざわざ、「論語に云わく」と、まあ皮肉といえばこれほど強烈な皮肉はないですね。孔子が孔子の思想をひっくりかえすことをいったというのですから。わたしは、そういうことを主題にしている『教行信証』、顕浄土真実教行証という課題を明瞭にした仏教開顕の書の中に唯一ある偈頌、「正信念仏偈」ですが、これはそう簡単にはいかないのではないか、毎日「正信偈」をあげているから少しは意味をわかっていたほうが都合がよいのではないか、いう程度の意識からでは、決してうなずくことはできないのではないか、という感じがするのです。

偈頌と問答
もう一つ、『教行信証』の中で重要な要素をもっている事柄は偈頌と問答です。特に偈頌と問答というのは離してはならないものだという事を明瞭にしているのが、『教行信証』の略本といういい方をしております、『浄土文類聚鈔』です。
これに因って、曇鸞菩薩の註論を披閲するに、言わく、それ菩薩は仏に帰す、孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静己にあらず、出没必ず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしく先ず啓すべしと。取要 仏恩の深重なることを信知して、念仏正信偈を作りて曰わく、
といってここからずっと、いわゆる『教行信証』の中でいう「正信念仏偈」を、言葉を変える形でうたっていきます。そして偈頌の最後は、行数をきっちりと合わせて  六十行一百二十句、偈頌すでに畢りぬ。
と書いています。そして、その後になにも説明の言葉を入れないで「問う。」と書き出します。こういうことが『教行信証』の方では見にくいのです。偈頌が終わり、別序とよばれる信文類序が始まり、いろいろなことが書いてあって、三一問答が始まっています。私が『浄土文類聚鈔』の中で一番見事だなと思うのはここなのです。  問う。念仏往生の願、すでに三心を発こしたまえり、  論主、何をもってのゆえに一心と言うや。答う。
先ず最初は『教行信証』の信巻に提起されている三一問答を中核にして、中心的な問答として据えたうえで、今度は
また問う。大経の三心と観経の三心と、一異云何ぞ、と。答う。両経の三心すなわちこれ一つなり。何をもってか知ることを得る。
と問答を改める。非常に端切な、もののいい方です。これは「方便化身土文類」の、一九願に応答する『観経』の「一者至誠心、二者深心、三者回向發願心」という釈尊が教える三心と、『大経』の「至心信楽欲生」と示される本願の三心とは、どういう関係を持つのかという事を問題にした問答ですが、それを非常に簡決にいい切っていきます。そして、その次にもう一つ、
また問う。已前二経の三心と小経の執持と、一異云何ぞや。
今度は、『阿弥陀経』に「執持名號」「一心不亂」とある。先の両経とその執持とはどういう関係になるのかという三番目の問いを置きます。これは『教行信証』のほうでは「方便化身土文類」の二〇願を中心とする、いわゆる第三番目の問答です。しかし『教行信証』のほうで見ますと、どちらもずいぶん複雑というか、読んでいくときに苦労するところです。ところがこの『浄土文類聚鈔』では「問う。」「また問う。」という形で数行で事柄を決めてしまっています。
私はここのところで問いと答えの関係を問題にするのではありません。申し上げたいことは、やはり『教行信証』の、つまり顕浄土真実教行証という課題を持った仏教の学びの主題は、先程、申しました、超倫理、超国家の仏教を徹底して明らかにするという事であって、その主題を確認していく事柄を偈頌と問答のかかわりのなかで見つけていかなければならないのではないかと思うのです。だからわざわざ、偈頌と問答は『教行信証』のほうでは信巻と方便化身土の本巻の初めの所とに分けて、いわゆる三願転入といわれております所までずっとその問題は展開してきて、信ということの問題をうなずきます。
信ということにうなずいたというのは、なにも信心がわかったということではありません。「果遂の誓い、良に由あるかな。」というのですから願がわかったということでしょう。そして一九、二〇の願共に「すでにして悲願います。」「ここに久しく願海に入りて」というのですから、願がわかったということが信という言葉で表されている一つの要素なのです。

末法濁世の仏弟子
そういうことが明らかになったところから
信に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は、在世・正法・像・末・法滅、濁悪の群萌、斉しく、悲引したまうをや。
こういう送り仮名がつけてあります。「也」という字ですから、「をや」というのは漢文の約束としては、少し強調し過ぎということになります。「在世・正法・像・末・法滅」、仏教を基点にして人間が生きていく時を押さえると、この五つの時以外には人間のは生きる時はありません。お釈迦さまが生きておいでになった時か、お釈迦さまが亡くなって何年かの間か、仏法が影も形も無くなってしまった時か、そのどこかに生きているのです。今はいつかわかりませんが、今生きているのも仏教の確かめでいうならば、「在世、正法、像法、末法、法滅」の五時の中のどこかに生きているに違いないのです。そして、生きている人間がそのことを自覚するかしないかという問題が、時ということのなかにあります。人間は時の流れに身をまかせるというわけにはいきません。時を生きる人間は、時を見る、時を知る。そのとき、五時のどこかで生きているに違いないから、正法の時に生きた人間は幸せだが、法滅の時に生きた人間は昔悪いことをしたというような、話になっていきそうなところに仏教の一つの問題があるのです。確かに親鸞と同い年の明恵上人はそのようにおっしゃいました。末世のみなし 児といわれました。ところが、親鸞はそのようにいいませんでした。親鸞は釈尊の遺弟として生きた人ですから、『正像末和讚』の冒頭に
釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまう正像の二時は終わりにき  如来の遺弟悲泣せよ
正像の二時は終わったということにはっきり目を開け。そして、もはや像末、法滅の時に生きているのだと。そのとき、その深い悲泣をくぐってなお仏弟子だといえる存在は何かということを、明瞭に自覚すべきだということから始まるわけです。だから、みなし児だからといって、お釈迦さまの所へいきたいとか、ご在世の時だったらよかったというような発想は親鸞のなかにありません。私は明恵上人を悪くいうのではありません。こういうところにこそ人間にとっての一大事があることをはっきりさせたいのです。
文字どおり、親鸞は末法濁世の仏弟子だと。だから末法濁世の仏弟子には末法濁世なる今を生存の内実として、そこに足をつけて仏道の普遍的真実を一点の曖昧さも残さないように顕証し、開顕する責任があります。しかも、そうした責任は、自らが自覚的にうなずいた責任です。親鸞の顕浄土真実教行証という課題は、そのような責任の表れであり、その責任を果たしていく核になる事柄として偈頌と問答とが必然性をもつこととして位置づけらなくてはならなかったのだと思います。

行巻における「正信偈」の位置
ところが、なかなかそういう偈頌と問答の必然性がはっきりしません。ですから先生方もいろいろおっしゃいますが、「正信偈」というのは中身より位置がわからない。信ずべし、信ずべし、と書いてあるのだから信巻に置いたほうがよいのではないか、といわれる人もあります。行巻と信巻のちょうつがいみたいな所にある文章だといわれる人もあります。そうも読めない事もないのです。しかし、そう読まなかった一人の先輩がいます。それは曽我先生です。先生は、「正信偈は行です」とはっきりいい切りました。さて「正信偈」が行であるとはどういうことなのでしょうか。しかも、信という表現のもとで偈頌を読んでおいて、「正信偈」は行だといわれます。もし「正」と「偈」の字を外しますと、「信」の一字しか残りません。とすれば、信は行であるということになってしまいます。それほど近いには違いないのですけれども、そこには画然とした違いがあります。しかし、違いがあるけれども、その関係は非常に大切です。それをどう見るか。それが本当は、真宗学で昔からいわれます行信論ということの、基軸点なのです。そのことはまた「正信偈」と問答との必然性をどう見るかというこ とが基軸点なのだと思います。そのような位置に「正信念仏偈」が『教行信証』のなかで位置づけられているのだと先ず考えて、顕浄土真実教行証という課題で仏教を仏教として明らかにするとき、その「正信念仏偈」、それと必然性を持つ問答、この行信、ということが、基本的には視座になるというような了解を持つことは、無理ではないのではないか、という考えを持っているわけです。