私訳 無量寿経抄

大無量寿経 抄

これは、長浜教区のH氏が、御門徒と共に法要を勤めることを主旨として、作製されたものである。
なお、原文は縦書きであり、レイアウトも工夫されているが、HTML処理の為に横書きに変更。
ルビも同様に削除させていただいた。また、ここでは「絵画」は掲載しない。
H氏の試みを称賛する共に、HPへの掲載を快く許して下さったご好意に、心から感謝申し上げる。

――― 凡 例 ―――

 

一. 本書は、法要儀式での使用を目的としているため、右頁に読誦する時に用いる東本願寺蔵版本の「昭和法要式」(全編ではなく、経典の一部を抄出したもの)を掲載し、右頁には、それに対応する「読み下し文」と「私訳」を掲載している。

二. 「読み下し文」は、東本願寺発行の『真宗聖典』を底本としつつ、親鸞が著作に引用した文言と明らかに異なる箇所については、その都度、訂正を加えている。

三. 「私訳」については、親鸞の領解をベースとしつつ、適宜、サンスクリット本(藤田宏達訳)独自に記されている文言も採用している。

四. 本書に掲載した絵画は、すべて畠中光享氏によるものである。

五. 経典を除く、本文の表記については、原則として当用漢字・現代仮名づかいに従って表記している。

(伽 陀) ――gatha――

 ○先請弥陀入道場      まず弥陀に請いたてまつる 道場に入りたまえ

  不違弘願応時迎      弘願に違わず 時に応じて迎えたまう

  観音勢至塵沙衆      観音 勢至 塵沙の衆

  従仏乗華来入会       仏に従い 華に乗じ来たりて 会に入りたまえ

(善導大師『法事讃』より)

仏説無量寿経

曹魏天竺三蔵康僧鎧訳す

大無量寿経 〔スカーヴァティー・ヴューハ=極楽の荘厳〕

 

曹魏の時代、インド西域のトリピタカ〔三蔵〕康僧鎧、これを訳す

【序分】

我 聞きたまえき かくのごとき。

〔十方の無限・無際限の世界に住しておられる、過去・未来・現在の一切の仏・菩薩・聖なる仏弟子たちに帰命したてまつる。〕

わたしが、ブッダからお聞きしたのは、このようなことです。

一時 仏 王舎城耆闍崛山の中に住したまいき。大比丘衆、万二千人と倶なりき。

その時、釈尊はマカダ国の首都、王舎城〔ラージギル〕耆闍崛山〔霊鷲山=グリドラクータ〕の山中に会座をかまえ、身をとどめておられました。仏弟子たち一万二千人と一緒に生活しておられた時のことです。

一切の大聖、神通すでに達せりき。その名をば、尊者了本際・尊者正願・尊者正語・尊者大号・尊者仁賢・尊者離垢・尊者名聞・尊者善実・尊者具足・尊者牛王・尊者優楼頻螺迦葉・尊者伽耶迦葉・尊者那提迦葉・尊者摩訶迦葉・尊者舎利弗・尊者大目犍連・尊者劫賓那・尊者大住・尊者大浄志・尊者摩訶周那・尊者満願子・尊者離障・尊者流潅・尊者堅伏・尊者面王・尊者異乗・尊者仁性・尊者嘉楽・尊者善来・尊者羅云・尊者阿難と曰いき。みな、かくのごとき上首たる者なり。

仏弟子たちの心は、すでに、何ものにもとらわれない自在の境地に達しています。

その尊者たちの名前をあげれば、アージュニャータ・カウンディニヤ〔了本際〕・アシュヴァジット〔正願〕・バーシュパ〔正語〕・マハーナーマン〔大号〕・バドラジット〔仁賢〕・ヤショーデーヴァ〔名聞〕・ヴィマラ〔離垢〕・スバーフ〔善実〕・プーナル〔具足〕・マイトラーヤニープトラ〔満願子〕・ガヴァーンパティ〔牛王〕・ウルヴィルヴァー・カーシャパ〔優楼頻螺迦葉〕・ナディー・カーシヤパ〔那提迦葉〕・ガヤーカーシヤパ〔伽耶迦葉〕・マハー・カーシヤパ〔摩訶迦葉〕・シャーリプトラ〔舎利弗〕・マハー・マウドガリヤーヤナ〔大目■(牛+建)連〕・マハー・カッピナ〔劫賓那〕・マハー・チュンダ〔摩訶周那〕・アニルッダ〔離障〕・キンピラ〔堅伏〕・スヴァーガタ〔善来〕・アモーガラージャ〔面王〕・パーラーヤニカ〔異乗〕・ナンダ〔嘉楽〕・ラーフラ〔羅云〕。そして、いまだ迷いにとらわれているアーナンダ〔阿難〕。

彼らが中心となって僧伽〔サンガ=過去・未来・現在真理を求める人々の集り〕が形づくられています。

また大乗のもろもろの菩薩と倶なりき。普賢菩薩と妙徳菩薩となり。慈氏菩薩等のこの賢劫の中の一切の菩薩に、また賢護等の十六の正士ありにき。善思議菩薩・信慧菩薩・空無菩薩・神通華菩薩・光英菩薩・慧上菩薩・智幢菩薩・寂根菩薩・願慧菩薩・香象菩薩・宝英菩薩・中住菩薩・制行菩薩・解脱菩薩なり。

また、その背景には、大乗仏教〔釈尊の滅後、数百年の時を経て展開した、すべてのものを救わんとする教え〕が見出した菩薩たちがいます。

五十六億七千万の後、ふたたび地上に誕生して世を救う弥勒菩薩〔マイトレーヤー=慈氏菩薩〕を先頭に、苦悩するこの世で人々を救いつづける普賢菩薩〔サマンタバトラ=還相の菩薩〕、智慧のすぐれた文殊菩薩〔マンジュシュリー=妙徳菩薩〕。そして、この時代のすべての菩薩、さらに賢護などの十六の菩薩。善思議菩薩・信慧菩薩・空無菩薩・神通華菩薩・光英菩薩・慧上菩薩・智幢菩薩・寂根菩薩・願慧菩薩・香象菩薩・宝英菩薩・中住菩薩・制行菩薩・解脱菩薩がいます。

みな普賢大士の徳に遵って、もろもろの菩薩の無量の行願を具し一切功徳の法に安住せり。

これらの菩薩たちは、普賢菩薩の姿に呼応して、見極めることのできない「行」と「願」を備えて、あらゆる功徳の法に安んじています。

―― 昭和法要式 ・ 中略 ――

【発起序】

〔阿難の問い ~真実の教えを証するもの~〕

その時、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして光顔巍巍とまします。尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなわち座より起ち、偏えに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して仏に白して言さく、

その時のことです。釈尊の感官は悦びに満ちあふれ、清浄なる姿、そして、その表情はひときわ気高く輝いています。

その姿を目の当たりにしたアーナンダ〔阿難〕は、座から起ちあがって、まず衣の右肩を脱いで地にひざまずき、合掌して釈尊にたずねました。

 

「今日、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔巍巍とまします。明らかなる鏡、浄き影 表裏に暢るがごとし。威容顕曜にして超絶したまえること無量なり。

「世尊よ、今日はすべての感官が悦びにあふれ、その姿は浄らかで、表情は厳かで光に満ち満ちています。

まるで曇りのない鏡に映る浄き姿が透きとおっているかのようです。その気高さは、どのような言葉を並べてみても表しようがなく、言葉を失ってしまいます。

未だ曾て瞻覩せず。殊妙なること今のごとくましますをば。

わたしは、これまで長い間、世尊にお仕えしてきましたが、このような尊いお姿に出会ったことはありませんでした。」

〔五徳現瑞〕

唯然り。大聖、我が心に念言すらく、

さらにアーナンダは、自らに確かめるようにして、徳を表わす五つの尊称で釈尊に語りかけます。

 

「今日、世尊、奇特の法に住したまえり。

「今日、世尊は、かつて経験したことのない真理の境地〔無等等〕におられる。

今日、世雄、仏の所住に住したまえり。

今日、世雄は、あまねく平等に一切の諸仏にまみえる仏の境地〔普等三昧〕におられる。

今日、世眼、導師の行に住したまえり。

今日、世眼は、あらゆるものを導く、無上の行を実践する境地〔五眼〕におられる。

今日、世英、最勝の道に住したまえり。

今日、世英は、あらゆるものに独り秀でた勝れた道〔四智〕に住しておられる。

今日、天尊、如来の徳を行じたまえり。

今日、天尊は、限りない功徳をそなえた如来の徳〔第一義天〕に生きておられる。」

〔仏仏相念〕

去・来・現の仏、仏と仏と相念じたまえり。今の仏も諸仏を念じたまうことなきことを得んや。何がゆえぞ威神光光たること乃し爾る」と。

「過去・未来・現在の仏たちは、互いに念じておられます。そしていま、世尊も諸々の仏たちを念じておられるのですね。そうでなければ、どうして、こんなにも厳かに輝いていられるでしょうか。」

ここに世尊、阿難に告げて曰わく、

「云何ぞ阿難、諸天の汝を教えて仏に来し問わしむるや。自ら慧見をもって威顔を問いたてまつるや。」

ここで釈尊は、アーナンダの問いの質を確かめられます。

「アーナンダよ、いま、あなたが言ったことは、天の神々がやってきて、ブッダに問えと教えられたのですか。それとも自らの自発的な問いなのですか。」

阿難、仏に白さく、「諸天の来りて我に教うる者、あることなし。自ら所見をもってこの義を問いたてまつるのみ」と。

アーナンダは、釈尊に答えます。

「神々がやってきて教えたのではありません。わたし自身の問いに他なりません。」

 

仏の言わく、「善きかなや。阿難。問いたてまつるところ、甚だ快し。深き智慧・真妙の弁才を発して衆生愍念してこの慧義を問えり。

釈尊はおっしゃいます。

「アーナンダよ、あなたが問うたことは、本当に意味がある問いなのです。あなたが、このことをブッダに問わねばならないと考えた根底には、あらゆる人々との悲しみの共感があるのです。だからこそ、このすぐれた問いは生まれたのです。」

〔出世本懐〕

如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう。世に出興したまう所以は、道教を光闡して、群萌を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。

「ブッダは、大いなる悲しみをもって、この世界の理をみつめています。世に生まれ出たのは、仏に成る道を明瞭にして、寄り添って群れながら生きる人々〔群萌〕に、真実の利を恵もうとするためなのです。

無量億劫に値いたてまつること難く、見たてまつること難し。霊瑞華の、時あって時に乃し出ずるがごとし。

ブッダが世に出現する機会は、どれほど永い時を経ようとも値うことは稀であり、たとえ同じ時代を生きたとしても、聞くということは本当に困難なことなのです。ちょうど、三千年に一度だけ咲く霊瑞華〔憂曇華=ウドゥンバラ〕の花が開く時に出会うようなことなのです。

今、問えるところは饒益するところ多し。一切の諸天・人民を開化す。

いま、あなたが問うたことによって、すべての神々、そして、一切の人々が目覚めていくでしょう。」

阿難、当に知るべし、如来の正覚、その智量り難くして導御したまうところ多し。慧見無碍にして、能く遏絶することなし。一餐の力をもって、能く寿命を住めたまうこと、億百千劫無数無量にして、またこれよりも過ぎたり。諸根悦予してもって毀損せず。姿色変ぜず。光顔異なることなし。

「アーナンダよ、これは本当に知っておいてほしいことです。

ブッダのさとりは、解釈しようとする心そのものを否定する深い智慧をそなえ、人々を仏の道に導いていきます。透徹した眼は何ものにもさえぎられることなく、何ものにも妨げられることもない。もし欲するならば、わずか一度の朝食によって、限りなく寿命をとどめることもできるのです。全身にあふれる悦びは、何ものにも壊されることはない。その姿は色あせず、明るさに満ちた表情もゆがむことはない。

 

所以は何んとなれば、如来は定・慧、究暢したまえること極まりなし。一切の法において自在を得たまえり。

それはなぜかと言えば、

如来は禅定と智慧をどこまでも極め尽くし、とどまるということがない。あらゆる理に振りまわされることもなく、つねに自在であるからである。

阿難、あきらかに聴け。今、汝がために説かん。」

アーナンダよ、あきらかに聴きなさい。いま、あなたのためにわたしがこの世に生まれ出た本当の意味を話します。」

対えて曰わく、「唯然り。願楽して聞きたまえんと欲う。」

アーナンダは答えました。

「はい。このことは心の底から聞きたいと願って止まないことです。わたしのすべてをかけてお聞きします。」

仏、阿難に告げたまわく、

釈尊は、アーナンダに、自分が世に生まれ出る、はるか昔に出現した五十三の仏たちについて話し出されました。

 

―― 昭和法要式 ・ 中略 ―

 

【正宗分】

〔はるかなる法蔵菩薩の物語〕

その時に次に仏ましましき。

そして、さらに過去に遡り、一番はじめに出現した仏の物語について話が及んだ時です。

〔如来の十号〕

世自在王、

「世自在王〔ローケーシュヴァラ・ラージャ=世間の自在者たちの王〕という名の仏がおられた。

如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。

その仏は、如来(真如より来り、去るもの)として、「応供〔尊敬を受けるに値するもの〕」・「等正覚〔諸仏のさとりに等しきもの〕」・「明行足〔智と行がそなわったもの〕」・「善逝〔幸あるもの〕」・「世間解〔世間を知るもの〕」・「無上士〔最高のもの〕」・「調御丈夫〔訓練されるべき人間の調教師〕」・「天人師〔神々と人間の師〕」・「仏〔真理をさとったもの〕」・「世尊〔世に尊きもの〕」と仰がれていました。

〔地上の救主、法蔵の降誕〕

時に国王ましましき。仏の説法を聞きて心に悦予を懐き、尋ち無上正真道の意を発しき。国を棄て、王を捐てて、行じて沙門と作り、号して法蔵と曰いき。高才勇哲にして、世と超異せり。

その時代に、一人の国王がおられた。

その国王は、世自在王如来の説法を聞いて、心に、かつてない悦びを抱き、たちまち無上の道を求める決意をされます。

そして、祖国も王位も投げすてて、出家して道を求める沙門〔食を乞いながら生きる出家者〕となり、「法蔵〔ダルマカーラ=仏法を蔵して失わぬもの〕」という名告りをあげられました。その才能と志は、世を超えてすぐれていました。

世自在王如来の所に詣でて、仏の足を稽首し、右に繞ること三帀して、長跪し合掌して頌をもって讚じて曰わく、

法蔵比丘は、世自在王如来のもとへ訪ねると、まず、仏足を押しいただき、三度右まわりにめぐった後、地にひざまずいて合掌し、詩〔偈頌〕をもって世自在王如来の徳を讃えられました。」

〔嘆仏偈〕

光顔巍巍として、威神極まりましまさず。かくのごときの焔明、与に等しき者なし。

日月・摩尼・珠光・焔耀もみなことごとく隠蔽して、猶し聚墨のごとし。

ブッダの威顔は気高く輝き、その魂は極まりなく果てがない。

闇を照らし出す光明〔智慧〕は、等しきものなく

その輝きの前には、日月の光も宝玉の輝きも

大いなる光明に覆われて、まるで墨のかたまりのようになる。

如来の容顔、世に超えて倫なし。正覚の大音、響き十方に流る。

如来のすがたは、世に超えて類なく

法を説きたまう大いなる声は、あらゆる世界に響きわたり

戒聞・精進・三昧・智慧、威徳侶なし、殊勝希有なり。

持戒と多聞と精進と禅定と智慧が備わって、その威徳は、世にならぶことなく、ことのほか優れている。

深く諦かに善く、諸仏の法海を念じ、深を窮め奥を尽くして、その涯底を究む。

無明・欲・怒、世尊永くましまさず。人雄・師子、神徳無量なり。

諸仏の広き教えの海を、深く明らかに念じたまい

その至奥まで心をめぐらし、その根底を極め尽している。

世尊は、無明・欲望・怒りから、永く離れ

世にあって獅子のように雄々しく、無量の徳が備わっている。

功勲広大にして、智慧深妙なり。

光明・威相、大千に震動す。

願わくは我作仏して、聖法の王と斉しからん。

生死を過度して、解脱せずということなからしむ。

その功徳は、広大で、智慧もまた深い。

闇を照らす光明は、自己という小さな世界を震わせる。

わたしが願うのは、仏となって、世尊と共なる世界に生きること。

生まれたこと、そして死に迷う者を、救いとげたいのです。

布施・調意・戒・忍・精進、

かくのごときの三昧、智慧上れたりとせん。

吾誓う、仏を得んに、普くこの願を行ぜん。

一切の恐懼に、ために大安を作さん。

施し、心の安立、生きる戒め、受け止めること、求めること

このような境地と智慧をおさめ、必ず無上の者としたいのです。

わたしは誓う。仏となる時は、例外なくこの願いを果たしとげん。

一切の恐れ、慄きのための、大いなる安ぎとなろう。

たとい仏まします。百千億万、

無量の大聖、数、恒沙のごとくならん。

たとえ、百千億万の仏たちがいようと

世を導く者が、ガンジス河の砂のように数限りないとしても

一切の、これらの諸仏を供養せんよりは、

道を求めて、堅正にして却かざらんには如かじ。

これらの仏がたを、すべて供養するよりも

道を求めて、怯まず、与えらたこの場にとどまり続けることに及ぶものはない。

たとえば恒沙のごときの諸仏の世界、

また計うべからず。

無数の刹土、光明ことごとく照らして、

このものもろの国に遍くせん。

かくのごとく精進にして、威神量り難からん。

ガンジス河の砂の数ほどの仏の世界があったとしても

それに振りまわされる必要はない。

無数の国があるとしても、わたしの光明が、すべての国々の闇に至り届くように精進して、放棄しないことを、わたしは誓う。

我仏に作らん、国土をして第一ならしめん。

その衆、奇妙にして、道場、超絶ならん。

国 泥のごとくして、等双なけん。

我 当に哀愍して、一切を度脱せん。

わたしは必ず仏になる。そして、その国の大地〔国土〕を第一のものとさせよう。

その大地に立つ人々は、それぞれが独立し、その場は必ず自己が問いになる道場となる。

その国は静かなる世界〔涅槃〕と対等であり、模倣することはできない。

わたしは悲しみの共感から、すべての人々に目覚めてほしいと願って止まないのです。

十方より来生せんもの、心悦ばしめて清浄ならん。

あらゆる世界からわたしの国に生まれたいと願うものを、心の底からの悦びと、清らかな静けさで満たしたいのです。

すでに我が国に至りて、快楽安穏ならん。

幸わくは仏、信明したまえ、これ我が真証なり。

願を発して彼において、所欲を力精せん。

わたしの国に至ったならば、壊れることのない悦びに安住させたいのです。

願わくば、世自在王如来よ、この志願を信託してください。それのみが、わたしの唯一の証となります。

わたしは彼方において、この志にすべてをかけます。

十方の世尊、智慧無碍にまします。

常にこの尊をして、我が心行を知らしめん。

たとい、身をもろもろの苦毒の中に止るとも、

我が行、精進にして忍びて終に悔いじ。」

十方の世尊がたは、あらゆることが生かされていく智慧を備えておられます。

世尊がたに、この誓いが至り届くようにわたしは常に公開しつづけます。

たとえ、どんな苦や滅ぼしに身をひたそうとも、

わたしはこの願いにすべてをかけ、最後まで悔いることはない。

〔久遠の対話〕

仏、阿難に告げたまわく、「法蔵比丘、この頌を説き已りて、仏に白して言さく、

釈尊は、さらに物語の続きをアーナンダに語りだされます。

「法蔵比丘は、自らの志願を込めた詩〔偈頌〕を世自在王如来に語られた後、次のように話されました。」

「唯然り。世尊、我 無上正覚の心を発せり。願わくは、仏、我がために広く経法を宣べたまえ。我当に修行して仏国を摂取し、清浄に無量の妙土を荘厳すべし。我 世において速やかに正覚を成らしめて、もろもろの生死・勤苦の本を抜かしめん。」」

『わたしが願うのはこれ以外にありません。

世自在王如来よ、わたしはこの上ないさとりを求める心をおこしました。願わくば、わたしのために広く教えをお説きください。わたしはそのすべてを修め、仏がたの世界を選び取り、清浄にして妙なる大地を表現〔荘厳〕したいのです。どうかわたしに、生きてあるこの身において、速やかにさとりを開かせ、世界の苦しみの根本をのぞかせてください。』

仏、阿難に語りたまわく、「時に世饒王仏、法蔵比丘に告げたまわく、

釈尊は、さらにアーナンダに続けます。

「その時、世自在王如来は、法蔵比丘に志願の質を確かめられたのです。」

「修行せんところのごとく、荘厳の仏土、汝 自ら当に知るべし。」

『どのような修行をして国の大地を表現〔荘厳〕するかは、あなた自身で知るべきでしょう。』

比丘、仏に白さく、

これに対して、法蔵比丘は、世自在王如来に応えます。

「この義 弘深にして我が境界にあらず。唯願わくは世尊、広くために諸仏・如来の浄土の行を敷演したまえ。我これを聞き已りて当に説のごとく修行して所願を成満すべし。」

『この理は弘くして深い。わたしが持ち合わせている世界では、すでに間に合わないことを知りました。世自在王如来よ、どうかあらゆる仏がたの世界をお示しください。わたしは、それを聞きおわったならば、説かれたとおりに修行して、この願いを完成させます。』

その時に世自在王仏、その高明の志願の深広なるを知ろしめして、すなわち法蔵比丘のために、しかも経を説きて言わく、

これを聞いた世自在王如来は、法蔵比丘の志願の深さと広さを知り、これに応答するようにして教えを説かれはじめます。

「たとえば大海を一人升量せんに、劫数を経歴して、なお底を窮めてその妙宝を得べきがごとし。人、心を至し精進にして道を求めて止まざることあれば、みな当に剋果すべし。何れの願いをか得ざらん。」

『法蔵よ、たとえば大海の水を一人でくみ取ろうとして、果てしない時を経たならば、やがて底までたどり着き、海底の宝を得ることができる。

そのように、人が心を尽して努力し、道を求めて止むことがなければ、みな必ずその目的を果たし遂げ、どのような願いでも得ることができるであろう。』

ここに世自在王仏、すなわちために広く二百一十億の諸仏刹土の天人の善悪、国土の麁妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与えたまう。

ここで世自在王如来は、二百一十億の諸仏の世界に生きる人々の善悪、その大地の優劣を説かれました。そして、法蔵比丘の願いに応じて、そのすべて現わし、これを与えられたのです。

〔五劫思惟の願〕

時にかの比丘、仏の所説の厳浄の国土を聞きて、みなことごとく覩見して、無上殊勝の願を超発せり。その心寂静にして、志 着するところなし。一切の世間に能く及ぶ者なけん。五劫を具足して、荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取す。」

この時、法蔵比丘は、世自在王如来が説かれた国土のありさまを、すべて見通して、無上の願いをおこします。その心は静けさに満ち、一切の偏りがない。あらゆるこの世的なものは、及ぶところがない。そして、五劫〔カルパ=果てしない時の単位〕という、はるかなる時をかけて人間の迷いのありさまを思惟し、仏国のありさまを選び取り、象られていきます。

阿難、仏に白さく、「かの仏の国土の寿量、幾何ぞ。」

アーナンダが、釈尊にたずねます。

「世自在王如来の国土は、どれぐらいの時をもって、わたしたちに呼びかけ続けるのでしょうか。」

 

仏の言わく、「その仏の寿命は四十二劫なりき。」

釈尊の答えは

「その仏の寿命は四十二劫という時を持ちます。」

時に法蔵比丘、二百一十億の諸仏妙土の清浄の行を摂取しき。かくのごとく修し已りて かの仏の所に詣でて、稽首し足を礼して、仏を繞ること三帀して、合掌して住して、仏に白して言さく、

釈尊はさらに物語を続けます。

法蔵比丘は、二百一十億の仏がたの大地を選び取り、選び捨てていかれます。

そして、そのすべて修めおえた法蔵比丘は、世自在王如来を訪ね、仏足を押しいただき、三度右まわりにめぐった後、合掌して地にひざまずいて、世自在王如来に申されました。

「世尊、我すでに荘厳仏土の清浄の行を摂取しつ」と。

仏、比丘に告げたまわく、

『世尊よ、わたしはすでに仏の大地を選び取り、選び捨てました。』

世自在王如来は、法蔵比丘に告げられます。

 

「汝、今説くべし。宜しく知るべし。これ時なり。一切の大衆を発起し悦可せしめよ。菩薩 聞き已りてこの法を修行して、縁として無量の大願を満足することを致さん。」

『汝、法蔵よ、五劫思惟の願いを説くがよい。いま、まさに時である。

一切の大衆の心を起ち上がらせ、心に悦びをあたえよ。

それを聞く菩薩(ボディーサットバ=道を求める者)たちは、この法を修め、これ契機として、それぞれが持っている、はかりしれない大いなる願いに気づき、満足することになるであろう。』

比丘、仏に白さく、

法蔵比丘は世自在王如来に述べられます。

「唯 聴察を垂れたまえ。我が所願のごとく当に具にこれを説くべし。

『はい。どうかお聴きください。そして、根底から批判してください。わたしが願いとするところを、すべてお話しします。』

―― 昭和法要式 ・ 中略 ――

〔本願 ~人間の闇を見通した法蔵菩薩の祈り~〕

〔四十八願文〕

一 たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。

第一願(無三悪趣の願)

わたしが仏となる時、わが国に、地獄〔人を感じることができない〕・餓鬼〔求めつづけても虚しさが支配する〕・畜生〔従属する生き方しかできない〕という状態に陥り、生きる方向が見出せないものがいるならば、わたしは仏となることを放棄する。

二 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿終わりての後、また三悪道に更らば、正覚を取らじ。

第二願(不更三悪趣の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとするものが、その「いのち」を終えた後、また、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に陥るということがあるならば、わたしは仏となることを放棄する。

三 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、ことごとく真金色ならずんば、正覚を取らじ。

第三願(悉皆金色の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きるものは、すべて感官が澄みきり金色に輝かなければ、わたしは仏となることを放棄する。

四 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ。

第四願(無有好醜の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きるものの姿に通底ものがなく、美醜という観念にとらわれるならば、わたしは仏となることを放棄する。

五 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、宿命を識らず、下、百千億那由他の諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじ。

第五願(宿命智通の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとするものが、背負っている業や生まれてきた意味に目覚めることなく、それが少なくとも、百千億ナユタ〔千億という単位〕という、はるかな過去の遍歴〔わたしという存在の深さ〕に及ぶに至ることがなければ、わたしは仏となることを放棄する。

六 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、天眼を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ。

第六願(天眼智通の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとするものが、自己、そして世を見通す透徹した眼を得られなければ、それが少なくとも、百千億ナユタという限りない数の諸仏の国を見ることができなければ、わたしは仏となることを放棄する。

七 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、天耳を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の所説を聞きて、ことごとく受持せざるに至らば、正覚を取らじ。

第七願(天耳智通の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとするものが、世と自己の奥底からの悲痛なる声なき声を聞く耳が得られなければ、それが少なくとも、百千億ナユタという限りない数の諸仏の教えを聞いて、すべて心に刻まれるということがないならば、わたしは仏となることを放棄する。

八 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、他心を見る智を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国の中の衆生の心念を知らざるに至らば、正覚を取らじ。

第八願(他心智通の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとするものが、他者によって問われることもなく、無関心であるならば、それが少なくとも、百千億ナユタの諸仏の国に生きるものの願いを知ることがないならば、わたしは仏となることを放棄する。

九 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、神足を得ずして、一念の頃において、下、百千億那由他の諸仏の国を超過すること能わざるに至らば、正覚を取らじ。

第九願(神足智通の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きるものが、身・心ともに軽々とせず、さまざまな場面で臆して自己を囲い込むならば、また、それが一念の刹那・瞬間に、少なくとも百千億ナユタという限りない数の諸仏の国に出入する自在を得られなければ、わたしは仏となることを放棄する。

一〇 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、もし想念を起こして、身を貪計せば、正覚を取らじ。

第一〇願(漏尽智通の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとするものが、もし、思い・計らいによって、自己保身に執着するならば、わたしは仏となることを放棄する。

一一 たとい我、仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ。

第一一願(必至滅度の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとするものが、正定聚〔生きる根拠が正しく定まった人々の集り〕に安じて入り、必ず静かなる境地〔滅度〕に至るということがなければ、わたしは仏となることを放棄する。

一二 たとい我、仏を得んに、光明能く限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。

第一二願(光明無量の願)

わたしが仏となった時、闇を照らす光明に限りがあり、それが少なくとも、百千億ナユタという限りない数の諸仏の国を明らかに照らさないならば、わたしは仏となることを放棄する。

一三 たとい我、仏を得んに、寿命能く限量ありて、下、百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ。

第一三願(寿命無量の願)

わたしが仏となった時、わが願いの呼びかけに「時」という限定があるならば、それが少なくとも、百千億ナユタ劫という、はるかなる時に及ばないならば、わたしは仏となることを放棄する。

一四 たとい我、仏を得んに、国の中の声聞、能く計量ありて、下、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとく共に計校して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ。

第一四願(声明無数の願)

わたしが仏となった時、わが国の声聞〔教えを聞く弟子〕を思い計ろうとして、それが少なくとも、あらゆる世界の声聞・縁覚〔独りで覚った者〕が協力して百千劫というはるかなる時をかけて、その数が知れるほどの深さがないならば、わたしは仏となることを放棄する。

一五 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿命能く限量なけん。その本願、脩短自在ならんをば除く。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第一五願(眷属長寿の願)

わたしが仏となった時、わが国に生きるものは、その「いのち」とする願いに限りはない。ただ、永遠という時を投げすて、この時にすべてをかけるという願いに立つものは除く。その自在性が持てなければ、わたしは仏となることを放棄する。

一六 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ。

第一六願(離諸不善の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きるものが、悪の本質を知って、悪から離れるということがなく、少なくとも不善という名を聞くことがあるならば、わたしは仏となることを放棄する。

一七 たとい我、仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずば、正覚を取らじ。

第一七願(諸仏称名の願)

わたしが仏となる時、あらゆる世界の無量の諸仏たちが、ことごとく称讃し、わが名(南無阿弥陀仏)を声として表現することがなければ、わたしは仏となることを放棄する。

一八 たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれざれば、正覚を取らじと。ただ五逆と正法を誹謗を除く。

第一八願(至心信楽の願)わたしが仏となる時、あらゆる人々は、心を尽したわが願いを信じて、わが国に生まれたいと願う真の欲求を発見するだろう。少なくとも十回の念仏を称えて、もし、わが国に生まれないならば、わたしは仏となることを放棄する。ただ、五逆のつみびとと、仏法をそしるものは除くということを銘記してほしい。

一九 たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、我が国に生まれんと欲わん。寿終の時に臨んで、たとい大衆と囲繞して、その人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。

第一九願(臨終現前の願)

わたしが仏となる時、あらゆる人々は、心を尽した願いを自ら立て、さとりを求める心〔菩提心〕をおこして、さまざまな功徳を修めて、わが国に生まれたいと欲うだろう。「いのち」終わろうとするその時、望みに応じて、もしわたしが仏の世界を生きる大衆とともに、その人の前に現れ、護ることがなければ、わたしは仏となることを放棄する。

二〇 たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して、我が国に生まれんと欲わん。果遂せずは、正覚を取らじ。

第二〇願(不果遂者の願)

わたしが仏となる時、あらゆる人々は、わが名号(南無阿弥陀仏)を選び取り、あらゆる徳の本である名号を自らの善として集積するようになるだろう。そして、心を尽してその功徳をわが国に差し向け、わが国に生またいと欲うだろう。わたしはその願いに添いつづけ、その人がついに目覚めるということがなければ、わたしは仏となることを放棄する。

二一 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、ことごとく三十二大人の相を成満せずんば、正覚を取らじ。

第二一願(具足諸相の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとするものすべてが、仏であることを証する三十二の優れた特徴を欠くことなく備えなければ、わたしは仏となることを放棄する。

二二 たとい我、仏を得たらんに、他方の仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生すれば、究竟して必ず一生補処に至る。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除かんと。常倫に超出し、諸地の行 現前し、普賢の徳を修習せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第二二願(還相回向の願)

わたしが仏となる時、他の仏国土に生きようとする菩薩たちは、わが国に来たり生まれて、この一生を極め終えた時には、必ず仏の用きを他者にもたらすものとなる〔一生補処〕。しかし、この願いを聞いたものは自在の境地に立つ。すなわち、苦しみ悩む人々のために、弥陀の誓いを体現して、あらゆる徳の本を身に修め、一切のものに大いなる放棄という道を開き、諸仏の国に遊ぶがごとく軽々と菩薩の行を修め、十方の諸仏如来を供養し、ガンジス河の砂の数に等しき人々を目覚ましめ、限りある生に道という無上の意味を開こうとするものは除く。そのものは、常識・倫理をこえ、菩薩が歩んでいく道程を示し、慈愛に満ちた菩薩・普賢の徳を身に備えるのである。もし、そうならないのならば、わたしは仏となることを放棄する。

二三 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、仏の神力を承けて、諸仏を供養し、一食の頃に遍く無数無量那由他の諸仏の国に至ること能わずんば、正覚を取らじ。

第二三願(供養諸仏の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとする菩薩たちは、仏を生きる根拠とすることによって、諸仏たちの本懐を知るという真の供養をする。それが一回の朝食をとるあいだに、無数無量ナユタの国の諸仏すべてに至ることができなければ、わたしは仏となることを放棄する。

二四 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、諸仏の前にありて、その徳本を現じ、もろもろの欲求せんところの供養の具、もし意のごとくならずんば、正覚を取らじ。

第二四願(供養如意の願)

わたしが仏となる時、わが国の中の菩薩たちは、諸仏の前にあって、自らの存在を成り立たしめる徳の本を表現する。そして、供養を思い立つ時、意のごとく、真に欲求する表現の手段・方法が見出せなければ、わたしは仏となることを放棄する。

二五 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、一切の智を演説すること能わずんば、正覚を取らじ。

第二五願(説一切智の願)

わたしが仏となる時、わが国の中の菩薩たちが、一切のあらゆる事柄を仏の智慧をもって見聞し、それを言葉として表現することができなければ、わたしは仏となることを放棄する。

二六 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、金剛那羅延の身を得ずんば、正覚を取らじ。

第二六願(那羅延身の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとする菩薩たちが、ナーラーヤナ神〔ビシュヌ神〕がもつ破壊されることのない金剛の身に象徴されるように、時代に流されることなく仏法を聞くという身が得られないならば、わたしは仏となることを放棄する。

二七 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、一切万物厳浄光麗にして、形色殊特ならん。窮微極妙にして、能く称量することなけん。そのもろもろの衆生、乃至天眼を逮得せん。能く明了にその名数を弁うることあらば、正覚を取らじ。

第二七願(所須厳浄の願)

わたしが仏となる時、わが国では、あらゆるすべてのものが厳かにして麗わしく輝く。そして、その表現はそれぞれに異なり画一化されることもない。微細を極め尽くしていて、推し量って説明するということのできないものである。しかし、わが国に生きようとするある人が、たとえ天眼を得つくしたとして、その表現が明瞭に説明されるような底が知れるようなものであれば、わたしは仏となることを放棄する。

二八 たとい我、仏を得たらんに、国の中の菩薩、乃至少功徳の者、その道場樹の無量の光色あって、高さ四百万里なるを知見すること能わずは、正覚を取らじ。

第二八願(道場樹の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとする菩薩たちは、たとえ功徳が少なくとも、生きるすべての場から道場樹〔現実の大地に根を張った仏のさとりを象徴〕の限りない光と色を感じることができるようになる。そして、その高さが四百万里であることを知見することができなければ、わたしは仏となることを放棄する。

二九 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、もし経法を受読し、諷誦持説して、弁才智慧を得ずんば、正覚を取らじ。

第二九願(得弁才智の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとするものが、もしも自らの人生を証として仏説を伝え、口にとなえて心に持っても、それを自由に表現して仏の智慧が得られないならば、わたしは仏となることを放棄する。

三〇 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、智慧弁才、もし限量すべくんば、正覚を取らじ。

第三〇願(智弁無窮の願)

わたしが仏となる時、わが国の菩薩たちの獲得した、仏の智慧によってもたらされる表現が、他者の受け売りでしかなく、その表現に限りがなるならば、わたしは仏となることを放棄する。

三一 たとい我、仏を得んに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見せんこと、猶し明鏡その面像を覩るがごとくならん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第三一願(国土清浄の願)

わたしが仏となる時、わが国土の清浄性は、ちょうど曇りのない鏡でその姿をみるように、あらゆる無量・無数の、また思い計らうこと自体を否定する諸仏の世界を明らかに照らし出す。もし、そうならないならば、わたしは仏となることを放棄する。

三二 たとい我、仏を得んに、地より已上、虚空に至るまで、宮殿・楼観・池流・華樹、国の中のあらゆる一切万物、みな、無量の雑宝百千種の香をもって、しかも共に合成せん。厳飾奇妙にして、もろもろの人天に超えん。その香、普く十方世界に薫ぜん。菩薩、聞かん者、みな仏行を修せん。もしかくのごとくならずんば、正覚を取らじ。

第三二願(宝香合成の願)

わたしが仏となる時、地上から天空〔虚空〕に至るまで、宮殿・楼閣・水の流れ・樹々の華など、わが国の中のあらゆるものは、すべて異なる無量の宝と百千種の香りを持ち合わせ、しかも、重なり合っても他を排除することがない。その姿は独自性を持っており、人間や天人の境域も超えている。そして、その薫香は、普くすべての世界に自然に感じさせる。その薫香にふれたもの、あるいは菩薩たちは、すべて仏の用き〔自ら覚り・他を覚らしめ・その作用が時代を超えていく〕を修めるものとなる。もし、このようにならなければ、わたしは仏となることを放棄する。

三三 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が光明を蒙りてその身に触れん者、身心柔軟にして、人天に超過せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第三三願(触光柔軟の願)

わたしが仏となる時、わが光明〔闇を破る智慧〕にふれた十方の無量・無数・不可思議・無比の異世界の衆生たちは、身心ともに、しなやかさを持ち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道を輪廻するあり方を超える真の仏弟子となる。もし、そうならなければ、わたしは仏となることを放棄する。

三四 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずんば、正覚を取らじ。

第三四願(聞名得忍の願)

わたしが仏となる時、十方の無量・無数・不可思議・無比の異世界の菩薩たちが、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞いて、菩薩の無生法忍〔韋提希が獲得した喜・悟・忍のさとり〕、深総持〔陀羅尼=聞思した教法をすべて記憶して深く持つ〕を得なければ、わたしは仏となることを放棄する。

三五 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、我が名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終わりての後、また女像とならば、正覚を取らじ。

第三五願(女人成仏の願)

わたしが仏となる時、十方の無量・無数・不可思議・無比の異世界に生きる女人・悪人〔仏に見出された人間の姿〕がいて、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞いて、大いなる放棄の世界を明らかに知り、さとりを求める心〔菩提心〕を発して、自らの心に止まろうとする身を厭うようになる。身に執着する「いのち」終わって後、なお女像に固執するならば、わたしは仏となることを放棄する。

三六 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、寿終わりての後、常に梵行を修して、仏道を成るに至らん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第三六願(常修梵行の願)

わたしが仏となる時、十方の無量・無数・不可思議・無比の異世界に生きる菩薩たちは、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞いて、「いのち」終わった後、つねに浄らかな行〔梵行〕を修め、仏道の完成に至る。もし、そうならなければ、わたしは仏となることを放棄する。

三七 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸天人民、我が名字を聞きて、五体を地に投げて、稽首作礼し、歓喜信楽して、菩薩の行を修せん。諸天世人、敬いを致さずということなけん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第三七願(人天致敬の願)

わたしが仏となる時、十方の無量・無数・不可思議・無比の異世界のさまざまな天人や人々は、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞くことをとおして、五体投地という身を投げ出す最上の敬礼をなし、歓喜をともなう信を獲得して菩薩の行を修めるようになる。その姿に、もろもろの神々や世の(仏教を学ばない)人々が恭敬の心を持たないことはない。もし、そうならなければ、わたしは仏となることを放棄する。

三八 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、衣服を得んと欲わば、念に随いてすなわち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。

第三八願(衣服随念の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとするある菩薩は、衣服を得ようと思い、念をなすと同時にその思いどおりになる。それはブッダが讃える教えに相応した衣服〔糞装衣〕のように、自然に身につくものである。もし、その衣服を裁縫したり・染め直したり・洗濯しなければならないということがあるならば、わたしは仏となることを放棄する。

三九 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、受けんところの快楽、漏尽比丘のごとくならずんば、正覚を取らじ。

第三九願(快楽無染の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きるものが生まれると同時に受ける快楽が、漏尽比丘〔一切の煩悩を断じ尽くした聖者〕のようでなければ、わたしは仏となることを放棄する。

四〇 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、意に随いて十方無量の厳浄の仏土を見んと欲わん。時に応じて願のごとく、宝樹の中にして、みなことごとく照見せんこと猶し明鏡にその面像を覩るごとくならん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第四〇願(見諸仏土の願)

わたしが仏となる時、わが国の中の菩薩たちが、浄らかに表現された、あらゆる無量の仏たちが立つ大地〔仏土〕を見たいと欲する。その意を起こしたその時、願ったように、宝で象徴されるさまざまな樹々〔浄土を生きる自在人の姿〕を、すべて照らし見るようになる。それは明らかな鏡に映る姿をみるかのようである。もし、そのようにならなければ、わたしは仏となることを放棄する。

四一 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、仏を得んに至るまで、諸根闕陋して具足せずんば、正覚を取らじ。

第四一願(諸根具足の願)

わたしが仏となる時、無仏の国に生きる菩薩たちは、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞いて、仏となるに至るまで、もろもろの感官や感覚を欠けることなく備えなければ、わたしは仏となることを放棄する。

四二 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を逮得せん。この三昧に住して、一意を発さん頃に、無量不可思議の諸仏世尊を供養したてまつりて、しかも定意を失せじ。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第四二願(住定供仏の願)

わたしが仏となる時、無仏の国に生きる菩薩たちは、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞いて、誰もがみな清浄解脱三昧〔あらゆる煩悩の拘束を離れた清らかな境地〕を得つくすだろう。この三昧に生きる根拠を定め、一つの意をおこす間に無量不可思議の諸仏世尊の本意を知り、しかも定意〔静かで動じない境地〕を失うことがない。もし、そうならないならば、わたしは仏となることを放棄する。

四三 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、寿終わりての後、尊貴の家に生まれん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第四三願(生尊貴家の願)

わたしが仏となる時、無仏の国に生きるものたちは、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞いて、「いのち」終わっての後、尊貴〔諸仏〕の家に生まれ、そして、仏となっていく。もし、そのようにならなければ、わたしは仏となることを放棄する。

四四 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、歓喜踊躍して、菩薩の行を修し、徳本を具足せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第四四願(具足徳本の願)

わたしが仏となる時、無仏の国に生きるものたちは、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞いて、身も心も歓喜して菩薩の行を修め、徳の本を備える。もし、そうならなければ、わたしは仏となることを放棄する。

四五 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、みなことごとく普等三昧を逮得せん。この三昧に住して、成仏に至るまで、常に無量不可思議の一切の諸仏を見たてまつらん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第四五願(住定見仏の願)

わたしが仏となる時、無仏の国に生きるものたちは、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞いて、誰もがみな普等三昧〔諸仏を一時に平等に観ずる境地〕を得つくすだろう。そして、この三昧に生きる根拠を定めて仏になるまで、あらゆる人々を常に無量不可思議の諸仏として観ずるようになる。もし、そのようにならなければ、わたしは仏となることを放棄する。

四六 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、その志願に随いて、聞かんと欲わんところの法、自然に聞くことを得ん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

第四六願(随意聞法の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとする菩薩たちは、その志願に応じて、聞きたいとおもう法を自然に聞くことができる。もし、そのようにならなければ、わたしは仏となることを放棄する。

四七 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、すなわち不退転に至ることを得ずんば、正覚を取らじ。

第四七願(得不退転の願)

わたしが仏となる時、わが国、あるいは他の仏国土に生きようとする菩薩たちが、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞いて、時をへだてず、不退転〔生きる根拠が明確に定まり、立ち帰る場が明らかであること〕に至ることを得なければ、わたしは仏となることを放棄する。

四八 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、すなわち第一・第二・第三法忍に至ることを得ず、諸仏の法において、すなわち不退転を得ること能わずんば、正覚を取らじ。」」

第四八願(得三法忍の願)

わたしが仏となる時、わが国に生きようとする菩薩たちが、わが名字(南無阿弥陀仏)を聞いて、時をへだてず、第一法忍〔音響忍=ブッダの説法する声を聞き、その真理をさとって、その真理に身を据えること〕・第二法忍〔柔順忍=自ら思惟をめぐらして法の道理を、しなやかさをもってさとる。そして、あらゆる現実に呼応する〕・第三法忍〔無生法忍=目に見えるあらゆる現象を離れて、静寂なる法の境地に安立すること〕に至ることができず、また、もろもろの仏がたが真理とする境地をきわめて、時をへだてず、不退転〔生きる根拠が明確に定まり、立ち帰る場が明らかであること〕を得ることができなければ、わたしは仏となることを放棄する。

仏、阿難に告げたまわく、「その時に法蔵比丘、この願を説き已て頌を説きて曰わく、

釈尊は、さらにアーナンダに告げられました。

「その時、法蔵比丘は、五劫思惟の本願を説きおわると、重ねて次の詩〔偈頌〕を説かれたのです。

〔重誓偈〕

我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん、

この願満足せずは、誓う、正覚を成らじ。

わたしは世を超えた願いを建てた。必ず無上の道を歩みつづける。

この願いが満足しなければ、わたしは誓う、仏となることを放棄する。

我、無量劫において、大施主となりて、普くもろもろの貧苦を済わずは、誓う、正覚を成らじ。

わたしは無量劫というはるかな時において、大いなる施主となりつづける。どのような貧りの心があろうと、苦しみがあろうと、その人が歩み出すという救いをもたらされなければ、わたしは誓う、仏となることを放棄する。

我、仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。

究竟して聞ゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ。

人生そのものが仏となる道に成るに至って、わたしの名(南無阿弥陀仏)は、声を伴って十方のあらゆる世界を超えていく。名の響きが極め尽くされて、どのような世界、いかなる境遇にあろうとも聞えるところがないならば、わたしは誓う、仏となることを放棄する。

離欲と深正念と、浄慧と梵行を修して、

無上道を志求して、もろもろの天人の師とならん。

欲を離れ、寂静なる心境〔深正念〕に住し、浄らかな智慧と行を修めて、無上の道を志求して、さまざまな神々や人々の師となろう。

神力、大光を演べて、普く無際の土を照らし、三垢の冥を消除して、広くもろもろの厄難を済わん。

仏を根拠とすることによって獲る力によって、大いなる智慧〔光明〕の世界を示して、際限なく、どのような世界をも照らす。貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(おろかさ)という三つ心〔三垢〕に支配され、智慧なきあり方するものに、呪縛の本を取り除き、広くさまざまな厄難から救いたい。

かの智慧の眼を開きて、この昏盲の闇を滅せん。

仏の智慧による眼を開いて、この自己も世も見えないという混迷の闇を滅しよう。

もろもろの悪道を閉塞して、善趣の門を通達せん。

善という名の悪道をもふさぎ、真に自己になりつづけていく道の門を開けよう。

功祚、成満足して、威曜十方に朗かならん。

日月重暉を戢めて、天の光も隠れて現ぜじ。

仏のさとりという優れた徳をすべて備え、その気高き輝きは十方のあらゆる世界に温もりを与える。太陽も月もその光を奪われ、天の神々の光も現れることはない。

衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。

常に大衆の中にして、法を説きて師子吼せん。

大衆のために尽きることのない仏法の蔵を開き、広く自己も他者も目覚ましめる功徳の宝を施そう。常に大衆の中にあって、師子の吼えるがごとく、わたしのすべてをかけて説きつづけよう。

一切の仏を供養したてまつり、もろもろの徳本を具足せん。願慧ことごとく成満して、三界の雄たることを得たまえり。

過去・現在・未来の一切の自在人〔諸仏〕を見出して恭敬し、さまざまな徳の本を備えよう。わが誓願、そして仏の智慧をことごとく兼ね備えて、煩悩に覆われた欲界・清らかな色界・物質を超えた無色界〔三界〕という、あらゆるの世界の雄たることを得る。

の無碍の智のごとく、通達して照らさざることなからん。願わくは我が功慧の力、この最勝の尊に等しからん。

どのような障りにも意味を見出す仏の智慧のごとく、あらゆる闇に至り届いて、照らないところはない。願わくば、わが功徳・智慧の力が、最勝の師・世自在王如来と等しいものでありたい。

この願、もし剋果すべくは、大千感動すべし。虚空のもろもろの天人、当に珍妙の華を雨らすべし。」

この誓願が、もし果たし遂げられるならば、この宇宙よ、振動せよ。天空の天人たちよ、妙なる華を降らしてわが誓願を讃えよ。

―― 昭和法要式 ・ 中略 ――

 

阿難、仏に白さく、「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまえりとやせん。未だ成仏したまわずとやせん。今、現にましますとやせん」と。

アーナンダは、釈尊にたずねました。

「法蔵菩薩は、すでに仏となって、さとりの世界に至っておられるのでしょうか。あるいは、いまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、いま現にとどまり、法を説いておられるのでしょうか。」

 

仏、阿難に告げたまわく、「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。此を去ること十万億の刹なり。その仏の世界を名づけて安楽と曰う。」

釈尊はアーナンダに答えます。

「法蔵菩薩は、いま、すでに仏となって、現に西方の浄土におられるのです。その国は、ここを去ること十万億の国々を過ぎており、その仏の世界の名を極楽〔安楽〕という。」

 

阿難、また問いたてまつる。「その仏、成道したまいてより已来、幾の時を経たまえりとかせん」と。

アーナンダは、さらに問いをたてます。

「その仏が道を歩みだされてから、どれほどの時を経ているのでしょうか。」

仏の言わく、「成仏より已来、おおよそ十劫を歴たまえり。その仏国土には、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・硨磲・碼碯、合成して地とせり。

釈尊は答えます。

「成仏されて以来、おおよそ十劫というはるかなる時を経ています。

その仏の国土は、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・硨磲・碼碯などの七つの宝〔仏国土を生きる自在人たちの歩み〕で象られており、それらすべてが展開して歴史となり、歩み出す人々が立つ大地となっている。

恢廓曠蕩として限極すべからず。ことごとく相雑廁して転た相入間せり。光赫焜耀にして、微妙奇麗なり。清浄に荘厳して、十方一切の世界に超踰せり。衆宝の中の精なり。

自在に歩み出すことによって広がる世界観は実に広々として限極がない。宝で象徴される自在人たちの歩みは、ことごとく関係し合い、互いに呼応している。

その光り輝くさまは眩いばかりでありながらも、決して繊細さを失わない。歴史となったその姿は、清浄に象られており、あらゆる、この世的なものを超えている。まさに人々の歩みが宝として見出されており、自らかの魂となる。

その宝、猶し第六天の宝のごとし。

その宝は、ちょうど他の神々が願うものを自在に実現して自らの楽とすることができる世界〔第六天〕の宝のようでもある。

またその国土には、須弥山および金剛鉄囲・一切の諸山なし。また大海・小海・谿渠・井谷なし。仏神力のゆえに、見んと欲えばすなわち現ず。また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし。また四時、春秋冬夏なし。寒からず熱からず。常に和かにして調適なり。」

また、その歴史が培われてきた国土には、世界の中心にそびえる須弥山、それをとりまく山々〔金剛鉄囲〕はなく、大海も小海、深き谷もなければ、窪地もない。しかし、仏の力のために見ようと欲せば、時を経ず現れる。地獄・餓鬼・畜生という人間のあり方をはじめ、さまざまな困難な状況に振り回されることもない。また、どのような時であっても、春秋・冬夏がない。寒からず熱からず。常に和かにして平常をたもつのである。」

その時に阿難、仏に白して言さく、

「世尊、もしかの国土に須弥山なくは、その四天王および忉利天、何に依りてか住せん」と。

その時、アーナンダは、さらに釈尊に問いを投げかけます。

「世尊よ、もし、かの国土に須弥山がなければ、その中腹にあるといわれる四天王〔持国天・増長天・広目天・多聞天〕や、須弥山の頂上にあるといわれる忉利天〔帝釈天〕は、何によってたもたれ、そこに身を止めるというのでしょうか。」

仏、阿難に語りたまわく、

釈尊はアーナンダに答えます。

「第三の焔天、乃至、色究竟天、みな何に依りてか住せん」と。

「須弥山の上空にある第三の焔天〔夜摩天〕から色究竟天までの世界は、何によってたもたれていると思いますか。」

阿難、仏に白さく、

「行業果報 不可思議なればなり」と。

アーナンダは、釈尊にいいます。

「それらの世界は、行によって酬報される果、すなわち思い計らうことを否定する用き〔行業果報不可思議〕によってであります。」

仏、阿難に語りたまわく、

「行業果報 不可思議ならば、諸仏世界もまた不可思議なり。そのもろもろの衆生、功徳善力をもって行業の地に住す。かるがゆえによく爾るまくのみ」と。

釈尊はアーナンダに語られます。

「行と果の不可思議な用きならば、諸仏の世界もまた不可思議なのです。法蔵菩薩が建立した〔安楽〕の国に生きる人々は、自他を目覚めさせる功徳によって、行に応ずる地に身を止めているのです。だから、行という因がすべてであり、須弥山のあるなしは問題にならないのです。」

阿難、仏に白さく、「我この法を疑わず。ただ将来の衆生の、その疑惑を除かんと欲うがためのゆえに、この義を問いたてまつる」と。

アーナンダは、釈尊にいいます。

「わたしは、世尊が説かれた法を疑ってはおりません。ただ、無仏の時を生き、物語を対象的に解釈しようとする人々が抱く疑惑を除きたいために、このようなことをおたずねしたまでです。」

― 昭和法要式 ・ 中略 ――

 

〔本願の成就の姿〕

仏、阿難に告げたまわく、

法蔵菩薩が荘厳した国〔大地〕を説き終えた釈尊は、アーナンダに四十八の誓願の根幹をなす願いが成就した姿について話し出されます。

〔第一一願=必至滅度の願 成就文〕

「それ衆生ありて、かの国に生まれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。

「さて、アーナンダよ、真実の信を獲得して、かの仏国土にすでに生まれ、現に生まれ、未来に生まれようとするものは、どのような境遇に苛まれていようとも正定聚〔生きる根拠が正しく定まった人々のつどい〕に住する。

所以は何ん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。

それはなぜであるか。かの仏国土には、人間関心によって起こされる一切の実践や観念によって、生きる根拠を定めた邪聚〔よこしまに根拠を定めたもの〕、自分の可能を捨てきれず、それに執着し、自在人〔諸仏〕たちが歩んできた歴史を疑惑する不定聚〔生きる根拠が定まらないもの〕が一切存在しないからである。」

〔第一七願=諸仏称名の願 成就文〕

十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃歎したまう。

「実にアーナンダよ、十方のあらゆる世界に生きるガンジス河の砂に等しい自在人〔諸仏〕たちは、誰もがみな、無量寿仏の名(南無阿弥陀仏)を称讃し、そのすぐれた功徳の不可思議なることを讃歎されるのである。」

〔第一八願=至心信楽の願 成就文〕

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。」

「それぞれが個別な境遇を生きる人々は、自在人〔諸仏〕たちが伝えてきた無量寿仏の名を自らの声をとおして聞き、自らの身と心が問われ、魂に目覚めんこと、一たびの思念に極まる。阿弥陀如来の誓願は名号(南無阿弥陀仏)をもって、わたしに与えられ、自らの存在を表現されてくる。かの仏国土に生まれたいと願えば、時をへだてず、往生という悪重く障り多き生に完全燃焼する基盤と眼を獲得せしめ、不退転〔立ち帰る場が定まる〕に住しつづける。ただ、五逆のつみびとと、仏法をそしるものは除かれるのである。」

―― 昭和法要式 ・ 中略 ――

【流通分】

〔弥勒への付属〕

仏、弥勒に語りたまわく、

釈尊は、五十六億七千万の後の世に再び生まれて出て世を救う弥勒菩薩に語られます。

「それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。当に知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり。

「実に弥勒よ、かの無量寿仏の名を聞いて、天地に踊躍するほどの喜びを得る。それが、ただ一たびの思念であったとしよう。

弥勒よ、わたしはあなたに告げ、みなの前で宣言しよう。この信を得た人は無上涅槃〔静寂なる境地〕という大いなる利益を得る。すなわち、求めなくとも自然にさまざまなさとりを開くようになるのである。

 

このゆえに弥勒、たとい大火ありて三千大千世界に充満せんに、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞きて、歓喜信楽し、受持読誦し、説のごとく修行すべし。所以は何ん。多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲えども得ること能わず。

だからこそ弥勒よ、たとえ大火渦巻く三千大千世界にあったとしても、必ずこれを乗り越えて、一たびでも後悔の念をなしてはならない。それはなぜであるか。千万の菩薩たちはこの法門を聞かないために、無上なる等正覚の境地を退転しているのである。それゆえに、この仏説を深い思考をもって聞き、自らの身と心を問い続け、口にとなえて心に持ちつづけて、精進につとめなければならない。

もし衆生ありてこの経を聞けば、無上道において終に退転せず。このゆえに応当に専心に信受し持誦し説行すべし。」

もし、人があって、この仏説を聞けば、完全燃焼していく基盤と眼を獲得して、悪重く障り多き人生に道という無上の意味が与えられ、ついに退転しないのである。だからこそ、まさに心を専らにして自らの立ち帰る場を確かめ、口にとなえて心に持って自らの魂を表現しつづけなさい。」

仏の言わく、

「吾今もろもろの衆生のためにこの経法を説きて、無量寿仏およびその国土の一切所有を見せしむ。当に為すべきところの者はみなこれを求むべし。我が滅度の後をもってまた疑惑を生ずることを得ることなかれ。当来の世に経道滅尽せんに、我 慈悲哀愍をもって特にこの経を留めて止住すること百歳せん。

釈尊は語られます。

「わたしは今、さまざまな境遇を生きる人々のために、この経法を説き、無量寿仏とその仏国土のすべてを見せた。無量寿仏の魂にふれ、自在人〔諸仏〕の歴史に参画しようとするものは、みなこの法門を求めるであろう。

尋ねたいことがあるならば聞くがよい。ブッダ亡き後に、疑惑を生ずるようなことがあってはならない。やがて来る未来の世に、仏説はことごとく忘れ去られ、涅槃への道は失われてしまうだろう。わたしは引き裂かれるような悲しみをもって、特にこの経説だけは百歳という時をもって留めよう。それは無量寿仏の魂に目覚た自在人〔諸仏〕たちが、名を称讃することによってのみ伝承されていくのである。

それ衆生ありてこの経に値う者は、意の所願に随いてみな得度すべし。」

人ありて、この闇の中で仏説に値うたものは、心の願うままに、おこたることなく涅槃を求めるであろう。」

仏、弥勒に語りたまわく、

「如来の興世、値い難く見たてまつり難し。諸仏の経道、得難く聞き難し。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇い、法を聞きて能く行ずること、これまた難しとす。

釈尊は、弥勒菩薩に語られます。

「ブッダの生まれ出た世に値うことは難く、見ることも非常に困難である。諸仏たちが教えを道として実践することに会うことも得がたく、聞きがたい。道を求める菩薩たちの勝れた法、さまざまな波羅蜜〔パーラミター、大乗の菩薩行=布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧〕を聞くことは非常に困難である。悪重く障り多き人生に方向を与える善き師〔善知識〕に遇い、法を聞いて主体的に生きること、これもまた非常に困難である。

もしこの経を聞きて信楽受持すること、難きが中に難し、これに過ぎて難きことなし。

しかし、この仏説を聞いて自らの身と心を問いつづけることは、難きが中にさらに難く、これに過ぎたことはない。」

〔三如是〕

このゆえに我が法、かくのごとく作し、かくのごとく説き、かくのごとく教う。応当に信順して法のごとく修行すべし。」

「だからこそ、わたしは、智慧の完成に至る道を、このようになし、このように明瞭に説き、このように教えた。これに呼応し、いまこそ、専心せよ、行動せよ。

わたしは、この法門を滅びないように、あなたに大いなる付属をする。ブッダの法が滅没するために前進してはならない。如来の教命を動揺させてはならない。」

〔聞法の利益〕

その時に世尊、この経法を説きたまうに、無量の衆生、みな無上正覚の心を発しき。万二千那由他の人、清浄法眼を得き。二十二億の諸天人民、阿那含果を得き。八十万の比丘、漏尽意解り、四十億の菩薩、不退転を得、弘誓の功徳をもって自ら荘厳す。将来世において当に正覚を成るべし。

さて、この法門が釈尊によって説かれた時、限りなき混迷の中を生きるの人々は、誰もが無上のさとりを求める心をおこした。一万二千ナユタの人々は、清らかな眼を開き、二十二億の他の国々に生きる神々や人々は煩悩を離れた阿那含果〔アナーガーミン、不還果〕という境地を得た。戒をたもつ八十万の出家した仏弟子たちは、煩悩を断じ尽し〔漏尽意〕、四十億の道を求める菩薩たちは不退転を得、無量寿仏の誓願に目覚めた功徳によって自他ともに目覚めさせ、自らが起つ大地を表現していく。そして、未来に必ず仏となる道を歩む基盤を獲得する。

その時に三千大千世界、六種に震動す。大光普く十方国土を照らす。百千の音楽、自然にして作し、無量の妙華、紛紛として降る。

その時、三千大千世界が六種に震動し、大いなる光は普く十方のあらゆる国土を照らし出す。百千の音楽が自然に流れ、はかることのできないマーンダーラヴァ〔曼荼羅華〕の花が降りそそいだ。

仏、経を説きたまうこと已りたまいしに、弥勒菩薩および十方来のもろもろの菩薩衆、長老阿難、諸大声聞、一切大衆、仏の所説を聞きたまえて歓喜せざるはなし。

釈尊は、この仏説を説きおわられ、弥勒菩薩および十方のあらゆる国々からやって来た菩薩たち、この出世本懐の教えを説くに至った問いを発したアーナンダ、そして、もろもろの仏弟子たちは、この仏説を聞いて歓喜しないものはなかった。

仏説無量寿経

大無量寿経