試訳 唯信鈔

試訳 唯信鈔

作者の聖覚法印は法然上人からあつく信任された方であり、親鸞はこの書を書写して関東の門弟達に読むことをすすめ、引用された経釈に註を加えて「唯信鈔文意」を著している。

第十七願、観経の三心、「信」についての言及などから、選択集から教行信証への橋渡しという位置付けもされているが、比叡山での法印という聖覚の人物像について、研究者には様々な評価がある。


それ、生死をはなれ、仏道をならんとおもわんに、ふたつのみちあるべし。
いまこそ、迷いをはなれて、仏教の道を歩みだそうとしたとき、二つの道がある。
ひとつには聖道門、ふたつには浄土門なり。
一つは聖道門であり、二つは浄土門である。
聖道門というは、この娑婆世界にありて、行をたて功をつみて今生に証をとらんとはげむなり。
聖道門とは、この現実世界において、それなりの努力をして徐々に自分を向上させて、命尽きるまでに、ここで結果を出そうとがんばることだ。
いわゆる、真言をおこなうともがらは、即身に大覚のくらいにのぼらんとおもい、法華をつとむるたぐいは、今生に六根の証をえんとねがうなり。
いわゆる、真言の秘法を行う人々は、この身のままで大日如来の位にのぼろうとし、法華三昧の行を行う人々は、命尽きるまでに六根清浄のみじるしをえようと願っている。
まことに教の本意、しるべけれども、末法にいたり濁世におよびぬれば、現身にさとりをうること、億億の人の中に一人もありがたし。
これらの教えの本当の内容を、知ることができるとしても、もはや絶望の時代、腐敗した世界に成り果てているので、この身のままで結果を出すことは、ぜったいにだれにもできない。
これによりて、いまのよにこの門をつとむる人は、即身の証においては、みずから退屈のこころをおこして、あるいは、はるかに慈尊の下生を期して、五十六億七千万歳のあかつきのそらをのぞみ、あるいは、とおく後仏の出世をまちて、多生曠劫、流転生死のよるのくもにまどえり。
そうであるから、いま聖道門でがんばっている人は、その身に悟ったという証明を求めようとしても、おのずから堕落してしまうことになる。あるいは、救世主がこの世に生まれることを期待して、果てしない時を待ちわびて空しく暁の空を眺める。あるいは、次の指導者が現れるのを待って、限りない時間を永遠にまちわび、夜の雲のように重い闇の中で途方に暮れる。
あるいは、わずかに霊山・補陀落の霊地をねがい、あるいは、ふたたび天上人間の小報をのぞむ。
あるいは、釈尊の説法が行われた霊鷲山や観音菩薩が住むといわれる補陀落といった旧跡を参拝してみる。あるいは、帰ってもう一度、小さな事からコツコツと努力してみたりもする。
結縁まことにとうとむべけれども、速生すでにむなしきににたり。
こうした教えとの縁があったことは尊ぶべきことだが、結局お手軽な空しい結果に終わるのは目に見えている。
ねがうところ、なおこれ三界のうち、のぞむところ、また輪回の報なり。
聖道門の目標としているところは、結局迷いの世界を出ていない。憧れてみても、堂々巡りの結果しか得られない。
なにのゆえか、そこばくの行業慧解をめぐらして、この小報をのぞまんや。
あれこれ修行や学究に振り回されて、それがこんな寂しい結果でいいのだろうか。
まことにこれ大聖をさることとおきにより、理ふかく、さとりすくなきがいたすところか。
釈尊の入滅から遙かに時を経てしまっている。時代社会が違うのだ。だから、難解なのに、得られるものはちょっとだけ。そんなんでいいの?
ふたつに浄土門というは、今生の行業を回向して、順次生に浄土にうまれて、浄土にして菩薩の行を具足して、仏にならんと願ずるなり。
二つ目の浄土門というのは、今、念仏の行をして、次々に浄土に生まれ、浄土で菩薩の行を完成させて、成仏することを願う教えである。
この門は末代の機にかなえり。
この教えは、この時代の人間のあり方に適合している。
まことにたくみなりとす。
まことに巧みな教えなのである。
ただし、この門に、またふたつのすじ、わかれたり。
ただし、この教えも、二つの筋道に、分かれている。
 
ひとつには諸行往生、ふたつには念仏往生なり。
ひとつは諸行往生、ふたつは念仏往生である。
諸行往生というは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがうなり。
諸行往生というのは、父母を大切にし、あるいは先生・先輩によく仕え、あるいはいろいろな戒律を守り、あるいは施しの行・がまんの行をして、少なくとも密教の秘法・止観の行をめぐらしつつ、浄土に往生したいと願うのである。
これみな往生をとげざるにあらず。
これをしたから往生をしないということはない。
一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆえに。
すべては、往生を願いとした行である。
ただ、これはみずからの行をはげみて往生をねがうゆえに、自力の往生となづく。
ただし、これらは自分で励んで往生を願うのだから、「自力の往生」と名づけられる。
行業、もしおろそかならば、往生とげがたし。
ということはもし行が、疎かであったら、往生は難しい。
かの阿弥陀仏の本願にあらず。
ご存じの阿弥陀仏の本願の教えに沿っていないのである。
摂取の光明のてらさざるところなり。
そこまで仏の救いの光明は照らしていない。
ふたつに念仏往生というは、阿弥陀の名号をとなえて往生をねがうなり。
二つ目に念仏往生というのは、阿弥陀の名号(南無阿弥陀仏)を称えて往生を願うことである。
これは、かの仏の本願に順ずるがゆえに、正定の業となづく。
これは、阿弥陀仏の本願にそっているので、正しくさだまった行と名づける。
ひとえに弥陀の願力にひかるるがゆえに、他力の往生となづく。
ただただ阿弥陀の本願の力に引かれるということで、「他力の往生」と名づける。
そもそも名号をとなうるは、なにのゆえに、かの仏の本願にかなうとはいうぞというに、そのことのおこりは、阿弥陀如来いまだ仏になりたまわざりしむかし、法蔵比丘ともうしき。
そもそも名号(南無阿弥陀仏)を称えるのは、なぜ、阿弥陀仏の本願に適っているかを説明しよう。事の起こりは、阿弥陀如来がまだ悟りを得てしていないころ、修行僧であって法蔵という名前だった。
そのときに、仏ましましき。
彼が、先輩の仏に出会った。
世自在王仏ともうしき。
世自在王仏といわれた。
法蔵比丘すでに菩提心をおこして、清浄の国土をしめて、衆生を利益せんとおぼして、仏のみもとへまいりてもうしたまわく、「われすでに菩提心をおこして、清浄の仏国をもうけんとおもう。
修行僧法蔵はあらゆる人々を救いたいという心をおこし、清らかな国土を建設し、民を慈しもうと思っていた。そこで、世自在王仏のもとへ参上して申し上げた。「私は人々を救いたいのです。よって清らかな国土を建設しようと思います。
ねがわくは、仏、わがために、ひろく仏国を荘厳する無量の妙行をおしえたまえ」と。
お願いします、世自在王仏、わたしのために、開かれた国を形づくっていく限りなく素敵な仕事を詳しくおしえてください」と。
そのときに、世自在王仏、二百一十億の諸仏の浄土の人天の善悪、国土の麁妙をことごとくこれをとき、ことごとくこれを現じたまいき。
そこで、世自在王仏は、おなじことをやった先人たちによる無数のパターンの浄土で民たちがどうなっているのか、国土がどうなっているのかを説き、ことごとくこれらを目の前に出現してみせた。
法蔵比丘これをきき、これをみて、悪をえらびて善をとり、麁をすてて妙をねがう。
法蔵はこれを聞き、これを見て、わるいところを捨ててよいところ採用し、欠点を捨てて長所を集めようとした。
たとえば、三悪道ある国土をば、これをえらびてとらず。
たとえば、苦悩に満ちた厭うべきものを抱えた国土は、これを捨てて取らなかった。
三悪道なき世界をば、これをねがいてすなわちとる。
それがない世界を願い、選択した。
自余の願も、これになずらえてこころをうべし。
そのほかの願も、これに準じて選ばれたと思ってほしい。
このゆえに、二百一十億の諸仏の浄土の中よりすぐれたることをえらびとりて、極楽世界を建立したまえり。
こうして、数限りない先人たちの浄土の中から優れたところを選び取って、極楽の世界を建設された。
たとえば、やなぎのえだに、さくらのはなをさかせ、ふたみのうらに、きよみがせきをならべたらんがごとし。
それを例えて言うならば、柳の枝に、桜の花を咲かせたようなもの。景観の素晴らしさで有名な三重県の二見浦に、これまた有名な静岡県の清見が関を並べてみせたようなものだ。
これをえらぶこと一期の案にあらず。
これらを選ぶ思索に費やした時間は計り知れない。
五劫のあいだ思惟したまえり
とてつもなく長い時間、熟考されたのである。
かくのごとく、微妙厳浄の国土をもうけんと願じて、かさねて思惟したまわく、国土をもうくることは、衆生をみちびかんがためなり。
このようにして、深遠で荘厳で清浄である国土を建設しようと願い、繰り返し思索されたが、そもそも建設の目的は、悩める人々を導き招くためだった。
国土たえなりというとも、衆生うまれがたくは、大悲大願の意趣にたがいなんとす。
いくら国がすばらしくても、なかなかそこへいけないのでは、あらゆる人を慈しみ救おうとする仏の願いから外れてしまう。
これによりて、往生極楽の別因をさだめんとするに、一切の行みなたやすからず。
こう考えて、極楽へ往生するための方法を慎重に決めることにしたが、修行というものはおしなべて容易ではない。
孝養父母をとらんとすれば、不孝のものはうまるべからず。
親孝行を行にすれば、親孝行でない人はいけなくなる。
読誦大乗をもちいんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
経を読むことにすれば、素養がないものは望みがなくなる。
布施・持戒を因とさだめんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。
施しの行・戒を保つことにすれば、けちな人や戒が守れない人は漏れてしまう。
忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐいはすてられぬべし。
我慢とか努力を認めようということになれば、おこりんぼとかサボり魔は捨てられてしまうだろう。
余の一切の行、みなまた、かくのごとし。
なにをきめても、みんな、こういうことになってしまうのだ。
これによりて、一切の善悪の凡夫、ひとしくうまれ、ともにねがわしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなえんを、往生極楽の別因とせんと、五劫のあいだふかくこのことを思惟しおわりて、まず第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんという願をおこしたまえり。
こうして、善い人も悪い人もあらゆる人間たちが、平等に生まれるような、同じ世界を共に願わせようとして、ただ「阿弥陀」という三字の名前をとなえるということを、極楽に往生する大切な手だてにしようと、長く深い思索の末に考えぬいて、さっそく十七番目に、あらゆる仏たちに自分の名前をほめたたえてほしいという願いを起こされた。
この願、ふかくこれをこころうべし。
この願のいわれを、深く受け止めてほしい。
名号をもって、あまねく衆生をみちびかんとおぼしめすがゆえに、かつがつ名号をほめられんとちかいたまえるなり。
自分の名前を使って、あらゆる人々を導きたいと思われたから、とりあえず名前を讃えてほしいという誓いをたてられたのである。
しからずは、仏の御こころに名誉をねがうべからず。
であるから、仏は名誉のようなものを欲しがっているのではない。
諸仏にほめられて、なにの要かあらん。
そうでなければ他の仏たちにほめてもらう、必要などない。
「如来尊号甚分明 十方世界普流行
「阿弥陀如来の尊い名前が、人智を越えて優れていることは明確であり あらゆる世界にあまねく広まっている。
但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)
ただその名を称えれば、皆浄土に生まれる。観音菩薩、勢至菩薩が来て迎えてくださるのだ。」
といえる、このこころか。
というのは、このことを示しているのではないか。
さて、つぎに第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまえり。
さて、次に十八番目に念仏往生の願をおこして、10回念仏を称えたものを導こうとおっしゃった。
まことにつらつらこれをおもうに、この願、はなはだ弘深なり。
真剣にじっくりとこのことを考えると、この願いには、とても深くて大いなる意味がある。
名号は、わずかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなうるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらわず、在家・出家、若男・若女、老・少、善・悪の人をもわかず、なに人かこれに、もれん。
「アミダ」という名前は、わずかに3字なので、劣等生だったチューダパンタ(しゅりはんどく)であっても忘れることないだろう。称えるには、どんな格好をしていてもいいし、いつでもどこでもだれでもいい。ぼうさんであってもなくても、男であろうと女であろうと、お年寄りでもこどもでも、善人でも悪人でもいい。このやりかたで、もれてしまう人がいるだろうか。
「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
「阿弥陀仏は法蔵菩薩であったとき誓いを起てられた。我が名を聞きて念仏すれば、そのすべての人を迎えに行こう。
不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
貧しく虐げられた人と豊かで地位の高い人を区別しない。頭が悪いとかいいとかも区別しない。
不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
たくさん聞法し浄い戒律を守った人、戒律を破り罪が深い人を区別しない。
但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
念仏しようという心をおこさせ、何度も念仏を称えさせよう。砂利か石ころのように扱われている人間を黄金のように輝かせよう。」
このこころか。
こんな感じかな。
これを念仏往生とす。
これが念仏往生なのだ。
龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の中に、「仏道を行ずるに難行道・易行道あり。
龍樹菩薩が書かれた『十住毘婆沙論』という書物の中に、「仏道修行に難行道と易行道がある。
難行道というは、陸路をかちよりゆかんがごとし。
難行道というのは、陸路をてくてく歩いていこうとするようなものだ。
易行道というは、海路に順風をえたるがごとし。
易行道というのは、海路を順風満帆で進んでいくようなものだ。
難行道というは、五濁世にありて、不退のくらいにかなわんとおもうなり。
難行道というのは、乱れ腐った世の中で、絶対くじけない人間になろうとするようなものだ。
易行道というは、ただ仏を信ずる因縁のゆえに、浄土に往生するなり」といえり。
易行道は、ただ阿弥陀仏を信じるという深い縁によって、浄土に往生することだ。」とおっしゃった。
 
難行道というは、聖道門なり。
難行道というのは、先ほど申した聖道門のことだ。
易行道というは、浄土門なり。
易行道というのは、浄土門のことだ。
 
わたくしにいわく、浄土門にいりて諸行往生をつとむる人は、海路にふねにのりながら順風をえず、ろをおろし、ちからをいれて、しおじをさかのぼり、なみまをわくるにたとうべきか。
私なりに申すと、浄土門に入りながらさまざまな行もして往生しようとしている人は、船で海路を進みながら、いい風が得られないので、櫓を降ろして、力を入れて、海流に逆らって、波間を分けて行こうとしている姿に喩えられるだろうか。
つぎに念仏往生の門につきて、専修・雑修の二行わかれたり。
つぎに念仏往生の教えは、専修・雑修の二行わかれている。
専修というは、極楽をねがうこころをおこし、本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏の一行をつとめて、まったく余行をまじえざるなり
専修というのは、極楽を願う心をおこし、本願にまかせようという心をおこして、ただ念仏だけをとなえ、まったく他のはからいを交えないことである。
他の経・呪をも、たもたず、余の仏・菩薩をも念ぜず、ただ弥陀の名号をとなえ、ひとえに弥陀一仏を念ずる、これを専修となづく。
他の教典も・陀羅尼も、用いることなく、他の仏・菩薩に手を合わせることもなく、ただ弥陀の名前をとなえ、一心に阿弥陀仏だけに手を合わせる。これを専修というのだ。
雑修というは、念仏をむねとすといえども、また余の行をもならべ、他の善をもかねたるなり。
雑修というのは、念仏を第一にするといいながら、他の行もいっしょにして、いいとこどりをしようとしていることである。
このふたつの中には、専修をすぐれたりとす。
この二つの中では、専修の方が優れている。
そのゆえは、すでにひとえに極楽をねがう。
なぜかというと、あなたは元々一心に極楽に生まれることを願っているのでしょう。
かの土の教主を念ぜんほか、なにのゆえか他事をまじえん。
浄土の教えの主に手を合わせているのに、なぜ別のことをまぜてしまうのか。
電光朝露のいのち、芭蕉泡沫の身、わずかに一世の勤修をもちて、たちまちに五趣の古郷をはなれんとす。
一瞬の稲妻、あるいは朝露のようにはかないこの命、芭蕉の茎のように空虚で泡あぶくのようにもろいこの体、それがただ生涯お念仏をいただくことによって、たちまち苦悩に満ちた今の自分を離れようとしているのに。
あに、ゆるく諸行をかねんや。
どうして、ゆらゆらと念仏以外のことまでやろうとするのか。
 
諸仏菩薩の結縁は、随心供仏のあしたを期すべし。
他の仏、菩薩とのご縁は、浄土に往生すれば心のままに供養ができるのだから、後の楽しみにしておきなさい。
大小経典の義理は、百法明門のゆうべをまつべし。
大乗小乗様々な教典のどれがいいわるいを詮索することは、あらゆる智慧がそなわるお浄土に生まれるまで待っていなさい。
一土をねがい一仏を念ずるほかは、その用あるべからずというなり。
阿弥陀仏の浄土を願い、阿弥陀仏に手を合わせる以外のことは、なにも用はないということです。
念仏の門にいりながら、なお余行をかねたる人は、そのこころをたずぬるに、おのおの本業を執してすてがたくおもうなり。
念仏の教えに帰依しながら、それでも他の行をかねてやろうとする人。その心を明らかにすれば、結局ずっと重ねてきた実績が捨てられないのです。
あるいは、一乗をたもち三密を行ずる人、おのおのその行を回向して浄土をねがわんとおもうこころをあらためず、念仏にならべてこれをつとむるに、なにのとがかあらんとおもうなり。
あるいは、止観行を続け密教の秘法を行じる人は、自分の行を積み重ねて浄土に生まれるのだという心が改められず、念仏と同様にこれらを勤めても、なにも問題ないだろうと思っている。
ただちに本願に順ぜる易行の念仏をつとめずして、なお、本願にえらばれし諸行をならべんことのよしなきなり。
すみやかに、本願に順じた易しいお念仏を勤めず、まだ、本願からえらび捨てられたほかの行を対等に思っていることは間違っている。
これによりて、善導和尚ののたまわく、「専をすて雑におもむくものは、千の中に一人もうまれず、もし専修のものは、百に百ながらうまれ、千に千ながらうまる」(往生礼讃)といえり。
だから、善導さまは「「専」ということを捨てて雑行をやめられない人は、0.1パーセントも浄土に生まれない。専修の人は、100人なら100人が生まれ、1000人なら1000人が生まれるのだ。」とおっしゃった。
「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生
「極楽は無上涅槃の境界である。それぞれの縁に任せて雑多な善行を修してもそこには生まれない。
故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃)
だからこそ阿弥陀如来は大切な名号を選び取り、念仏を称えること、ただ一つに専念せよと教えられた。」
といえり。
とおっしゃっている。
随縁の雑善ときらえるは、本業を執するこころなり。
「随縁の雑善」とまで嫌われたのは、その心根がこれまでの成果に執着してしまっているからである。
たとえば、みやづかえをせんに、主君にちかづき、これをたのみてひとすじに忠節をつくすべきに、まさしき主君にしたしみながら、かねてまた、うとくとおき人にこころざしをつくして、この人、主君にあいて、よきさまにいわんことをもとめんがごとし。
たとえば、会社に勤務しているとしよう。社長さんと親密になって、この人を頼りにして一筋に忠誠を尽くそうと、まさしくその社長さんに惚れ込んでいる。それなのに二股をかけて、よく知らない別の社長さんになんとなく好意を寄せて、この人を、自分の社長さんに会わせて、「いい社長さんだ」と言ってくれと無理に要求しているようなものだ。
ただちにつかえたらんと、勝劣あらわにしりぬべし。
一筋に惚れ込んでいるタイプと比べて、どちらが筋が通っているのか、はっきりと分かるでしょう。
二心あると一心なると、天地はるかにことなるべし。
ふたごころあるのと一心であるのとでは、天と地ほどに違っているのです。
これにつきて、人うたがいをなさく、「たとえば人ありて念仏の行をたてて毎日一万遍をとなえて、そのほかは、ひめもすにあそびくらし、よもすがらねぶりおらんと、またおなじく一万をもうして、そののち経をもよみ余仏をも念ぜんと、いずれかすぐれたるべき。
こう申しても、疑いを持つ人がいる。「例えば念仏を毎日1万回称えて、あとは、一日中遊び暮らして、夜は長々と寝てしまっているのと、同じく1万回念仏して、そのあと経典を読み諸々の仏にも手をあわせているのと、どちらが優れているだろう。
『法華』に、「即往安楽」の文あり。
法華経にも、「すぐに極楽にいけます」という文章があります。
これをよまんに、あそびたわぶれにあなじからんや。
権威のあるお経を読誦している人と、遊び呆けているヤツを一緒にしていいんだろうか。
『薬師』には、八菩薩の引導あり。
薬師瑠璃光如来本願功徳経には、八人の菩薩が悟りの道へと導いてくださると書いてある。
これを念ぜんは、むなしくねぶらんににるべからず。
八人もいるんだぞ。この菩薩さまたちにも手を合わせるのと、だらだらと眠っているのとは違いがあるんじゃないだろうか。
かれを専修とほめ、これを雑修ときらわんこと、いまだそのこころをえず」と。
そういう輩を専修とほめて、まじめな人を雑修と嫌うとは、どうも納得できない」と。
いままたこれを案ずるに、なお専修をすぐれたりとす。
さっそくこの問題を考察したが、やはり専修の方が優れている。
そのゆえは、もとより濁世の凡夫なり。
なぜなら、私たちは腐敗した社会に迷いの生を受けて生きているのだ。
ことにふれてさわりおおし。
そういう人間が生きているんだ。壁にぶち当たってばかりいるんだ。
弥陀これをかがみて易行の道をおしえたまう。
阿弥陀仏はこういう姿を見通したからこそ、易しい道を教えてくださったのだ。
ひめもすにあそびたわぶるるは、散乱増のものなり。
一日中遊び呆けているのは、物欲が強いからである。
よもすがらねぶるは、睡眠増のものなり。
ずっと眠りこけているのは、眠るのが大好きだからである。
これみな煩悩の所為なり。
こういうことはすべて人間の本性がさせているのである。
たちがたく伏しがたし。
いきなり止めたりできないし、コントロールもできない。
あそびやまば念仏をとなえ、ねぶりさめば本願をおもいいずべし。
遊びが終わったら念仏を称え、目が覚めたら本願を思い出しなさい。
専修の行にそむかず。
ちゃんと専修の念仏になっている。
一万遍をとなえて、そののちに他経・他仏を持念せんは、うちきくところたくみなれども、念仏、たれか一万遍にかぎれとさだめし。
一万回称えて、そのあとで他の教典・他の仏に手を合わせているのは、一見うまくやっているように見えるけれど、念仏は、だれが一万回でいいと決めたのか。
精進の機ならば、ひめもすにとなうべし。
できるのなら、一日中称えなさい。
念珠をとらば、弥陀の名号をとなうべし。
念珠を持てば、ナムアミダブツと称えなさい。
本尊にむかわば、弥陀の形像にむかうべし。
仏に手を合わすのなら、阿弥陀仏のお姿に向かいなさい。
ただちに弥陀の来迎をまつべし。
ひたすら、阿弥陀仏が迎えに来るのを待ちなさい。
なにのゆえか、八菩薩の示路をまたん。
なんで、八菩薩の道しるべを待つのか。
もっぱら、本願の引導をたのむべし。
ただ、本願が導いてくださることを信じなさい。
わずらわしく、一乗の功能をかるべからず。
ごちゃこちゃと、法華経の功徳を借りるということなどしなくてよい。
行者の根性に上・中・下あり。
念仏する人の性根にも3タイプある。
上根のものは、よもすがら、ひぐらし、念仏をもうすべし。
それで上のタイプだと思っている人は、夜も、昼も、念仏を称えなさい。
なにのいとまにか、余仏を念ぜん。
どういう暇があって、他の仏に礼拝するのか。
ふかくこれをおもうべし。
肝に銘じておきなさい。
みだりがわしくうたがうべからず。
だらだらと疑っていてはダメだ。
つぎに、念仏もうさんには、三心を具すべし。
次に、念仏を称えるには、三心を具えなさい。
ただ名号をとなうることは、たれの人か一念・十念の功をそなえざる。
ただ念仏を称えよということだから、それを1回とか10回とか、できない人はいないだろう。
しかはあれども、往生するものはきわめてまれなり。
しかしながら、往生するものは極めてまれである。
これすなわち、三心を具せざるによりてなり。
これはすなわち、三心を具えていないからである。
『観無量寿経』にいわく、「具三心者 必生彼国」といえり。
「仏説観無量寿経」には「三心を具えれば 必ずかの国に生まれる」とある。
善導の釈にいわく、「具此三心必得往生也 若少一心即不得生」(往生礼讃)といえり。
善導の「観経疏」には「三心を具えればからなず往生する。もし一心でも欠ければ生まれない」とある。
三心の中に一心かけぬれば、うまるることをえずという。
三心のうち一心がかけても、生まれることはできないと言っている。
よの中に弥陀の名号となうる人おおけれども、往生する人のかたきは、この三心を具せざるゆえなりとこころうべし。
世の中に弥陀の名前を称える人は多いが、なかなか往生する人がいないのは、この三心を具えていないからである。
その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実のこころなり。
その三心というのは、ひとつは至誠心。これはすなわち真実の心である。
おおよそ、仏道にいるには、まずまことのこころをおこすべし。
そもそも、仏の道を歩み出すには、まず真実の心を起こしなさい。
そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。
心が真実でなければ、仏の道を進むことはできない。
阿弥陀仏の、むかし菩薩の行をたて、浄土をもうけたまいしも、ひとえにまことのこころをおこしたまいき。
阿弥陀仏が、その昔菩薩の行を始め、浄土を建設した時も、ひたすら真実の心をおこされたのである。
これによりて、かのくににうまれんとおもわんも、ひとえにまたまことのこころをおこすべし。
そうであるから、彼の国に生まれたいと思うならば、同じようにひたすら真実の心を起こしなさい。
その真実心というは、不真実のこころをすて、真実のこころをあらわすべし。
この「真実心」と言っているのは、不真実の心をすてて、真実の心を明らかにするということだ。
まことにふかく浄土をねがうこころなきを、人におうては、ふかくねがうよしをいい、内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相にはよをいとうよしをもてなし、ほかには善心あり、とうときよしをあらわして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。
「不真実の心」、真実にふかく浄土に生まれたいと願う心がないというのはこういう事である。他人の前では、深く浄土に生まれたいとそれなりに言っていながら、心の中では根強くこの世界の名誉とか損得とかに目を奪われている。外ざまはこの世を厭うようなふりをし、他人に対しては善い心をもっている、尊敬されるような人間であるように振る舞っている。ほんとうは善くない心をもっていて、欲望のままに振る舞いたいというところもあるのに。
これを虚仮のこころとなづけて、真実心にたがえる相とす。
こういう人間の本性を虚しくかりそめの心と名づける。真実の心とは正反対の姿である。
これをひるがえして、真実心をばこころえつべし。
この心をひるがえして、真実の心を大切にしなさい。
このこころをあしくこころえたる人は、よろずのこと、ありのままならずは、虚仮になりなんずとて、みにとりて、はばかるべく、はじがましきことをも、人にあらわししらせて、かえりて放逸無慚のとがをまねかんとす。
この真実心の教えを間違って受け取った人は、何事につけても、ありのままにしないといけない、虚仮になってしまうということで、自分のようなものには、遠慮すべき、恥さらしなことまでも、他人の前で披露してしまい、かえって他人の迷惑を考えなような結果を招いてしまうことがある。
 
いま真実心というは、浄土を求め穢土をいとい、仏の願を信ずること、真実のこころにてあるべしとなり。
いま私が「真実心」と言っているのは、、浄土を求めこの世を厭い、阿弥陀仏の願いを大切にすることを、真実の心であるというべきであるということだ
 
かならずしも、はじをあらわにし、とがをしめせとにはあらず。
必ずしも、恥を露わにして、失敗を披露せよということではない。
ことにより、おりにしたがいてふかく斟酌すべし。
なにかにつけて、折々に深く考えてほしい。
善導の釈にいわく、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」(散善義)といえり。
善導大師は観経疏で「あからさまに賢き善人の姿を現してはならない。心の内は虚しく仮のものしかないのだから」とおっしゃっている。
ふたつに深心というは、信心なり。
二つめに深心というのは、いわゆる「信心」のことだ。
まず信心の相をしるべし。
まず「信心」とは何かを確認しよう。
信心というは、ふかく人のことばをたのみて、うたがわざるなり。
「信心」というのは、人の言葉を大切にして、疑わないことである。
たとえば、わがために、いかにも、はらぐろかるまじく、ふかくたのみたる人の、まのあたりよくよくみたらんところをおしえんに、「そのところには、やまあり、かしこには、かわあり」といいたらんを、ふかくたのみて、そのことばを信じてんのち、また人ありて、「それはひがごとなり、やまなし、かわなし」というとも、いかにも、そらごとすまじき人のいいてしことなれば、のちに百千人のいわんことをばもちいず、もとききしことをふかくたのむ、これを信心というなり。
たとえば、私のことを思っていてくれて、どう見ても下心がなく、確かに信用できる人が、直接自分が見てきた場所を教えてくれて「そこには、山があり、そこには、川がある」と言ってくれた。彼を信頼しその言葉を信じたあとで、他の人から、「それは間違っている、山はない、川もない」といわれたとする。しかし、どう見ても、嘘っぽくておかしな感じで言っているので信用せず、さらに大多数の人に言われても受けつけず、最初に聞いたことを深く頼りにする。これを「信心」と言うのです。
いま、釈迦の所説を信じ、弥陀の誓願を信じてふたごころなきこと、またかくのごとくなるべし。
さきほど、釈迦の説かれたことを信じ、弥陀の誓願を信じて二股をかけないといったのは、まさにこういう事なのです。
いまこの信心につきてふたつあり。
さてこの信心について二つの事があります。
ひとつには、わがみは罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
一つには、私は罪深く悪重き迷いの人生を生きている。遠い過去から、ずっと迷いの底に沈み、ずっと苦しみの世界をさまよっている。ここから逃れることはできないと、信じる。
ふたつには、決定してふかく阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂取したまうことを、うたがわざれば、かの願力にのりて、さだめて往生することをうと信ずるなり。
二つには、阿弥陀仏の四十八願が決定的に、私たちを摂め取ってくださることを、疑わず、つまり阿弥陀の本願の力に乗って、かならず往生することができると、信じることです。
よの人つねにいわく、「仏の願を信ぜざるにはあらざれども、わがみのほどをはからうに、罪障のつもれることはおおく、善心のおこることはすくなし。
いつもこのように言う人がいる。「阿弥陀仏の本願を信じていないわけではないけれど、日頃の自分を省みると、教えに逆らってばかりで、善い心が起こることは少ない。
こころつねに散乱して一心をうることかたし
こころはいつもちり乱れ、一心に祈るということはできない。
身とこしなえに懈怠にして精進なることなし。
基本的に怠け者であって、真摯であるということがない。
仏の願ふかしというとも、いかでかこのみをむかいたまわん」と。
阿弥陀仏の本願がいかに深いものであろうとしても、どうして私のような者を迎え入れてくれるだろうか」
このおもいまことにかしこきににたり。
こうした考え方は、まことに尊い。
慢をおこさず高貢のこころなし。
慢心がない。おごるこころがない。
しかはあれども、仏の不思議力をうたがうとがあり。
しかしながら、阿弥陀仏の人間にははかれない働きを疑うという過ちを犯している。
仏いかばかりのちからましますとしりてか、罪悪のみなればすくわれがたしとおもうべき。
阿弥陀仏の力を本当に知っているのか。それでも自分は罪深く悪重いから救われないと思っているのか。
五逆の罪人すら、なお十念のゆえにふかく刹那のあいだに往生をとぐ。
究極の罪を犯した人ですら、念仏のおかげであっという間に往生をとげる。
いわんやつみ五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや
それ以上の罪は犯しようがない。お念仏の働き以上の悪行などできるはずがない。
つみふかくは、いよいよ極楽をねがうべし。
罪が深いと思うのなら、いよいよ極楽に往生することを願いなさい。
「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といえり。
「戒を破った人や罪が深い人を簡び捨てるということがない」と書いてある。
善すくなくは、ますます弥陀を念ずべし。
自分のことをろくな人間じゃないと思っているのなら、ますます念仏を称えなさい。
「三念五念仏来迎」(法事讃)とのたまえり。
わずかに三回、五回  念仏する者も、弥陀は迎え来る」と書いてある。
むなしくみを卑下し、こころを怯弱にして、仏智不思議をうたがうことなかれ。
自分のことを卑下して、心弱く怯えているのは空しいことだ。弥陀の智慧の素晴らしさを疑ってはならない。
たとえば人ありて、たかききしのしもにありて、のぼることあたわざらんに、ちからつよき人きしにうえにありて、つなをおろして、このつなにとりつかせて、われきしのうえにひきのぼらせんといわんに、ひく人のちからをうたがい、つなのよわからんことをあやぶみて、てをおさめてこれをとらずは、さらにきしのうえにのぼること、うべからず。
例えば断崖の下にいて、登る事ができないとする。力の強い人が上にいて、綱を降ろして、この綱に掴まれば、私が引き上げますと言ってくれたのに、その人の力を疑い、綱が弱いのではないかと警戒して、手を出さずに掴まらなければ、絶壁の上に登ることはできるはずがない。
ひとえにそのことばにしたがいて、たなごころをのべて、これをとらんには、すなわちのぼることをうべし。
ただ引き上げる人の言葉にしたがって、手を伸ばして、これを取ったならば、あっというまに登ることができるのに。
仏力をうたがい、願力をたのまざる人は、菩提のきしにのぼることかたし。
阿弥陀の力を疑い、本願の力をたよりにしない人は、救いの岸に登ることはできないのだ。
ただ信心のてをのべて、誓願のつなをとるべし。
ただ、「信心」という己の手を伸ばし、「誓願」という救いのロープをつかみなさい。
仏力無窮なり。
阿弥陀仏の力は無限である。
罪障深重のみをおもしとせず。
人間の罪業が深く重いということなんて全く関係ない。
仏智無辺なり、散乱放逸のものをもすつることなし。
阿弥陀の人間を思う智慧には限界などない。だから集中力も節度もない人間を見捨てるということはあり得ない。
信心を要とす、そのほかをばかえりみざるなり。
信じる心がすべてである。その他のことなんてノープロブレム。
信心決定しぬれば、三心おのずからそなわる。
心から信じれば、説明しているような至誠心・深心・回向発願心はそのままそなわってくるのだ。
本願を信ずることまことなれば、虚仮のこころなし。
本願を信じる心は真実なのだ。虚しく飾った心など微塵もない。
 
浄土まつことうたがいなければ、回向のおもいあり。
浄土に生まれることを疑わないから、思いを浄土に振り向けるということになる。
このゆえに、三心ことなるににたれども、みな信心にそなわれるなり。
こうして、三つの心は異なっているようだけれども、すべて信じる心に備わっているのである。
みつには、回向発願というは、なのなかに、その義きこえたり。
三つめは、「廻向発願」であるが、その意味は名前の中に、表現されている。
くわしくこれをのぶべからず。
これについて詳しくは述べないでおこう。
過現三業の善根をめぐらして、極楽にうまれんと願ずるなり。
過去現在のあらゆる手だてを尽くして、極楽に生まれようと願うことである。
つぎに、本願の文にいわく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」といえり。
次に、大経の第十八願のなかには「すくなくとも十念して 浄土に生まれなければ仏にならない」という言葉が出てくる。
いま、この十念というにつきて、人うたがいをなしていわく、『法華』の「一念随喜」というは、ふかく非権非実の理に達するなり。
さて、この「十念」ということについて、疑いを持つ人がいて 法華経には「一念随喜」とあって、深遠なる一念で絶対真実の教えに到達するとある。
いま十念といえるも、なにのゆえか、十辺の名号とこころえんと。
大経には「十念」とあるが、なぜ、十回念仏を称えることと解釈するのか。
このうたがいを釈せば、『観無量寿経』の下品下生の人の相をとくにいわく、「五逆十悪をつくりもろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わずかに十辺の名号をとなえて、すなわち浄土にうまる」といえり
この疑いに答えるとすれば、「観無量寿経」では九通りの往生が説かれていて、その最低のあり方について、「最低最悪の罪を犯しあらゆる悪行をなした者も、臨終に際して、初めて師にすすめられ、わずか十回の念仏を称えれば、すなはち浄土に生まれる」と書いてある。
これさらにしずかに観じ、ふかく念ずるにあらず、ただくちに名号を称するなり。
これは決して静かに観想し、深く思念するという事ではない。だだ口でナムアミダブツと称える事である。
「汝若不能念」と、いえり。
「もしあなたが心に弥陀を念ずることができなければ」と、「観無量寿経」に書いてある
これふかくおもわざるむねをあらわすなり。
これは、心に念じることではないという事を表現している。
「応称無量寿仏」ととけり。
「無量寿仏と称えなさい」と説かれている。
ただあさく仏号をとなうべし、とすすむるなり。
ただただ阿弥陀仏の名を称えなさいと、すすめている。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪」といえり。
「十念を具えつつ 「無量寿仏に南無します」と称えれば み名を称えることにより 一声一声のうちに 果てしない時間積み重ねてきた迷いの罪が除かれる」と言われている。
十念といえるは、ただ称名の十辺なり。
十念というのは、ただ10回み名を称える回数ということである。
本願の文これになずらえてしりぬべし。
第十八願はこのようにして読み解きなさい。
善導和尚は、ふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまうに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(往生礼讃)といえり。
善導さまは、こうしたことを深く受け止め、第十八願をご自分なりに表現され「私(法蔵菩薩)が仏の悟りをひらくとき 生きとし生けるものが 私の名前を称え それが10回声に出すまでに 浄土に生まれないならば 私もまた救われない」と言われた。
十声といえるは口称の義をあらわさんとなり。
ここで「十声」と書かれたのは、口で称えるということを、はっきりさせようとされたからである。

 一 つぎに、また、人のいわく、臨終の念仏は功徳はなはだふかし。
次の話題に移って、さて、こういう事を言う人がいる。「臨終の際の念仏は非常に深い力を備えている。
十念に五逆を滅するは、臨終の念仏のちからなり。
10回で最悪の罪を消滅させるというのは、臨終の念仏の力のことを言っているのだ。
尋常の念仏は、このちから、ありがたしと、いえり
通常の念仏では、こういう力は、ないのだ」と、いうのである。
これを案ずるに、臨終の念仏は、功徳ことにすぐれたり。
この話題を考えてみる。臨終の念仏、その力は特別優れている。
ただし、そのこころをうべし。
しかし、なぜそうなのか考えてみなさい。
もし、人、いのちおわらんとするときには、百苦みにあつまり、正念みだれやすし。
人の命が尽きる時は、限りない苦しみに襲われ、冷静でいられずに乱れているケースが多い。
かのとき仏を念ぜんこと、なにのゆえかすぐれたる功徳あるべきや。
このようになってしまったとき念仏を称えて、どうして優れた功徳があると言えるだろうか。
これをおもうに、やまいおもく、いのちせまりて、みにあやぶみあるときには、信心おのずからおこりやすきなり。
このことについて考えてみると、病が重く、死が迫り、危機に瀕しているときには、自然と信心が起こりやすい。
まのあたりよの人のならいをみるに、そのみおだしきときは、医師をも陰陽師をも信ずることなけれども、やまいおもくなりぬれば、これを信じて、この治方をせばやまいいえなんといえば、まことにいえなんずるようにおもいて、くちににがきあじわいをもなめ、みにいたわしき療治をもくわう。
まったく世間では当たり前のことであるが、健康で安泰であるときは医師も占い師も信じることはなくても、病が重くなってくるとそういう人たちを信じることになり、「この治療法を施せば病は治る」と言われれば、なんとか治るだろうと思って、苦い薬も我慢して舐め、激痛を伴う治療でもやってもらう。
もしこのまつりしたらば、いのちのびなんといえば、たからをもおしまず、ちからをつくして、これをまつり、これをいのる。
「もしこの神仏を祀ったならば、命は延びるであろう」と言われれば、財産を惜しまず、力を尽くして、祀り、祈る。
これすなわち、いのちをおしむこころふかきによりて、これをのべんといえば、ふかく信ずるこころあり。
これはつまり、命を惜しむ心が深いからである。「寿命を延ばす」と言われれば、深く信じるという心があるのだ。
臨終の念仏、これになずらえてこころえつべし。
「臨終の念仏の功徳」と言うことは、こういう事に沿って考えなさい。
いのち一刹那にせまりて存ぜんことあるべからずとおもうには、後生のくるしみたちまちにあらわれ、あるいは火車相現じ、あるいは鬼卒まなこにさいぎる。
死がすぐそこに迫ってもうダメだと思ってしまうと、この後どうなるんだろうという苦しみに襲われ、悪事をなしたものを地獄に運ぶという火の車が目の前に現れ、地獄で罪を責めるという鬼が見えてくる。
いかにしてか、このくるしみをまぬかれ、おそれをはなれんとおもうに、善知識のおしえによりて十念の往生をきくに、深重の信心たちまちにおこり、これをうたがうこころなきなり
この苦しみ、恐怖から逃れたいという気持ちでいっぱいいっぱいの時に、善き師から念仏往生の教えを聴けば、深く重い信心がすぐさま起こる。往生を疑う心は、ない。
これすなわち、くるしみをいとうこころふかく、たのしみをねがうこころ切なるがゆえに、極楽に往生すべしときくに、信心たちまちに発するなり。
こういう事なのだ。苦しみを厭う心は深く、楽しみを欣う心は切実というのが人間の本性であるから、「極楽に生まれられる」と聴けば、信心はたちまちに起こってくるのである。
いのちのぶべしというをききて、医師・陰陽師を信ずるがごとし。
「寿命が延びるぞ」と言われて、医師や占い師を信じるようなものである。
もしこのこころならば、最後の刹那にいたらずとも、信心決定しなば、一称・一念の功徳、みな臨終の念仏にひとしかるべし。
臨終の念仏に特別な力があるわけではない。べつに最期のその時にならなくても、信心が定まることが肝心で、いつもの一声の念仏と臨終の際の念仏。その功徳に違いはない。

 二 またつぎに、よの人のいわく、たとい弥陀の願力をたのみて極楽に往生せんとおもえども、先世の罪業しりがたし、いかでかたやすくうまるるべきや。
さて次に、こういう事を言う人がいる。「たとえ阿弥陀仏の本願の力を頼りにして極楽に生まれたいと思っても、先の世で自分が犯した罪科は分かるはずがない。どうしてそう簡単に往生できるだろうか。
業障にしなじなあり。
人の持つ罪には様々なものがある。
順後業というは、かならずその業をつくりたる生ならねども、後後生にも果報をひくなり。
その中に「順後業」というものがある。罪というのはかならずしもその時に罰があるのではなく、過去世の罪業を来世で受けることもある。
されば、今生に人界の生をうけたりというとも、悪道の業をみにそなえたらんことをしらず、かの業力つよくして悪趣の生をひかば、浄土にうまるること、かたからんかと。
であるから、今人間として生まれたとしても、過去に深い罪業を負っていることを知らない。そしてこの罪業が強く地獄へとその人を引っ張るとしたら、浄土に生まれることはむずかしいだろう」と。
この義まことにしかるべしというとも、疑網たちがたくして、みずから妄見をおこすなり。
この言い方は非常に説得力があるようだが、疑いの網に絡め取られ、まったく筋道の立たない考え方をしてしまっている。
おおよそ、業ははかりのごとし、おもきものまずひく。
一般に、業とは秤のように考えられるもので、一番重いものが引っ張るのだ。
もしわがみにそなえたらん悪趣の業、ちからつよくは、人界の生をうけずして、まず悪道におつべきなり。
もし私に背負わされた地獄の業が強ければ、人の世に生を受けることなく、かならず地獄に堕ちていたはずである。
すでに人界の生をうけたるにてしりぬ、たとい悪趣の業をみにそなえたりとも、その業は人界の生をうけし五戒よりは、ちからよわしということを
人の世に生を受けているのだから分かるだろう。たとえ地獄の業を背負わされていたとしても、いちおうこうして人として生まれてきたのだから、その業は最低の戒律である五戒よりは、力が弱いということを。
もししからば、五戒をだにも、なおさえず、いわんや十念の功徳をや。
もしそうならば、五戒でさえ、全然じゃますることができなかった悪業なのに、どうして十念の功徳を障げることができようか。
五戒は有漏の業なり、念仏は無漏の功徳なり。
五戒は煩悩まみれの人間の行為である。念仏には清らかな阿弥陀仏の功徳がある。
五戒は仏の願のたすけなし、念仏は弥陀の本願のみちびくところなり。
五戒には仏の本願による助けがない。念仏には弥陀の本願の導きがある。
念仏の功徳はなおし十善にもすぐれ、すべて三界の一切の善根にもまされり。
念仏の功徳は大乗の根本戒律よりも優れ、あらゆる世界のすべての善よりも勝っている。
いわんや、五戒の少善をや。
いうまでもない。五戒という小さな善よりもだ。
五戒をだにもさえざる悪業なり、往生のさわりとなることあるべからず。
五戒でさえ遮ることのできない悪業など、往生のじゃまになるはずがない。


 三 つぎにまた人のいわく、五逆の罪人、十念によりて往生すというは、宿善によるなり。
次にこういう事を言う人もいる。「最悪の罪を犯した人が、十念によって往生するというのは、前世の善行によるのだ。
われら宿善をそなえたらんことかたし。
わたしたちは前世の善根など持っているはずがない。
いかでか往生することをえんや。
どうして往生できるだろう。」
 
これまた、痴闇にまどえるゆえに、いたずらにこのうたがいをなす。
これはまた、自分を貶める闇の中で途方に暮れているから、空しい疑いを抱くのだ。
そのゆえは、宿善のあつきものは、今生にも善根を修し悪業をおそる。
なぜなら、前世の善行が厚い者は、今でも善いことをしようし、悪いことを恐れる。
宿善すくなきものは、今生に悪業をこのみ善根をつくらず。
前世の善行が少ない者は、今でも悪いことを好んで善いことをしない。
 
宿業の善悪は、今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。
前世での善行悪行どちらが多いかは、いまの生き方を見ればはっきりと分かる。
しかるに、善心なし。
たしかに、私には善い心がない。
はかりしりぬ、宿善すくなしということを
はかりしれない。善いことをしてこなかったということは。
われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。
しかし私たちは、いくら罪悪を抱えているといっても、今、最悪の罪までは犯していない。
善根すくなしといえども、ふかく本願を信ぜり。
確かにやってきたことにはよいところは少ない。しかし、深く本願を信じているのだ。
逆者の十念すら宿善によるなり、いわんや、尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。
罪人の念仏ですら過去の善行の裏付けがある。ましてや、あなたの命尽きるまでの念仏が過去の善行に依らないはずがない。
なにのゆえにか、逆者の十念をば宿善とおもい、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもうべきや。
なぜ、罪人の十念を過去の善行によると思い、自分が一生懸命に念仏を称えていてもこちらの過去の善行は浅いと思ってしまうのか。
小智は菩提のさまたげといえる、まことにこのたぐいか。
人間の浅はかな知恵など、救いの妨げにしかならない。その典型的な例である。


 四 つぎに、念仏を信ずる人のいわく、往生浄土のみちは、信心をさきとす。
次に、念仏を信じている人がこんなことを言う。「浄土に往生する方途は、信心が最優先なのだ。
信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。
信心が定まってしまえば、必ずしも称えることは必要ではない。
『経』(大経)にすでに「乃至一念」ととけり。
「大無量寿経」にもちゃんと「少なくとも一回」と説かれている。
このゆえに、一念にてたれりとす。
であるから、一回で十分なのだ。
遍数をかさねんとするは、かえりて仏の願を信ぜざるなり。
回数を重ねようとするのは、かえって弥陀の本願を信じていないからだ。
念仏を信ぜざる人とて、おおきにあざけりふかくそしると。
念仏を信じていない。それは全く念仏をバカにして誹謗している」と。
まず、専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、つぎに、一念の義をたてて、みずから念仏の行をやめつ。
どういうことかというと、まず、「専修念仏」ということを旗頭にして、さまざまな大乗仏教の修行を捨ててしまう。次に、こうした一回でよいという説を立て、自ら念仏を称えることを止めてしまう。
まことにこれ魔界たよりをえて、末世の衆生をたぶろかすなり。
実はこういう人は魔界と縁を結び、末法の世の生きとし生けるものを迷わせているのである。
この説ともに得失あり。
この説には正しいところと間違ったところがある。
 
往生の業、一念にたれりというは、その理まことにしかるべしというとも、遍数をかさぬるは不信なりという、すこぶるそのことばすぎたり。
浄土に生まれる行為は、一回で十分なのだという説は、その通りと言うべきなのだが、繰り返し称えるのは信じていないことと同じだと言うのは、まったくもって言葉が過ぎている。
一念をすくなしとおもいて、遍数をかさねずは往生しがたしとおもわば、まことに不信なりというべし。
一回では少ないと思って、何回も称えなければ往生できないと思ったならば、それは念仏を信じていないと言ってもよい。
往生の業は一念にたれりといえども、いたずらにあかし、いたずらにくらすに、いよいよ功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、これをとなえば、ひめもすにとなえ、よもすがらとなうとも、いよいよ功徳をそえ、ますます業因決定すべし
浄土へ生まれるための行為は一回で足りていると聞いていても、空しく毎日を送り、無為に暮らしていて、やはり何かしなくてはならないのではないかと、念仏を称えることにして、一日中称え、一晩中称えてもよい。いよいよ功徳が備わり、ますます往生は定まるだろう。
善導和尚は、「ちからのつきざるほどはつねに称念す」といえり。
善導さまは「力の尽きるまで、いつまでも念仏を称えよう」とおっしゃった。
これを不信の人とやはせん。
だれがこういう人を不信の人とするだろうか。
ひとえにこれをあざけるも、またしかるべからず。
この人を嘲ることも、してはいけない。
一念といえるは、すでに経の文なり。
一回と言うことは、たしかに教典のなかに書いてある。
これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。
これを信じないということは、釈尊の言葉を信じていないことである。
このゆえに、一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなくもうすべきなり。
であるから、一回で定まったと信じ、しかも一生怠ることなく称えるべきだ。
これ、正義とすべし。
こういうことを、正しい教えとしなさい。

念仏の要義おおしといえども、略してのぶることかくのごとし
念仏の教えの要は多いけれども、省略して述べると以上のようなことだ。
これをみん人、さだめてあざけりをなさんか。
この書を読む人はみな、きっとお笑いになることであろう。
しかれども、信謗ともに因として、みな、まさに浄土にうまるべし。
しかしながら、信じること、謗ることをともに縁として、だれもが、浄土に生まれてほしい。
今生ゆめのうちのちぎりをしるべとして、来世さとりのまえの縁をむすばんとなり。
今この儚い出会いをも、道しるべとしてほしい。次の世での悟りのための縁を結んでほしい。だから書いたのだ。
われおくれば人にみちびかれ、われさきだたば人をみちびかん。
私が遅れれば先人に導いてもらおう。私が先に行けば後の人を導こう。
生生に善友となりて、たがいに仏道を修せしめ、世世に知識として、ともに迷執をたたん。
いつまでも善き友となって、お互いに仏道を学ぶことを励まし合おう。いつまでも先生と生徒となって、共に迷いの執着を絶とうではないか。
本師釈迦尊 悲母弥陀仏
根源の師である釈尊よ 慈悲の母である阿弥陀仏よ
左辺観世音 右辺大勢至
左に仕える観世音菩薩よ 右に仕える大勢至菩薩よ
清浄大海衆 法界三宝海
清らかなる大海の如き生きとし生けるものよ 仏・法・僧に帰依する、海の如く広大な法の世界よ
証明一心念 哀愍共聴許
私の一筋の念仏の心を証して 哀れみて共に法を聴くことを許したまえ

草本云
草本には以下のように書いてある。
承久三歳仲秋中旬第四日
1221年8月14日
阿居院法印聖覚作
安居院(天台宗の一流派)の法印(僧官の最上位)聖覚の作
寛喜二歳仲夏下旬第五日 以彼草本真筆
1230年5月25日 ご本人が書かれた草本を
愚禿釈親鸞書写之
愚禿釋親鸞が書写した。