水橋門徒・玉永寺・米騒動

歴史をめぐって

山

 

1207(承元2)専修念仏停止の院宣下る。源空(法然)とその門弟処罰される。
親鸞、越後へ遠流。
1262(弘長2)親鸞、京都にて病臥,入滅。
1264(文永元)恵信尼書状に「えちうへこのふみつかはし候也」とある
1288(正応元)寂心生まれる。(水橋門徒が13世紀に存在したと推測される)

水橋門徒

 本件最古の本願寺門徒集団。本願寺三代覚如の長男存覚の『存覚袖日記』の1360年(延文5)閏4月条には越後柿崎庄(現新潟県柿崎町)に住む教浄房が持参した本尊軸に、存覚が、<越中国水橋門徒 越後国柿崎住人尼浄円本尊也>と書いたとある。この本尊軸は、法然・親鸞・如信・覚如の4祖を描いた先徳連座像で、これら先徳から法系が水橋門徒へと手継(継承)されたことを存覚が認めたことになる。

日記には教浄の夫寂円やその妹浄円らの系図も記され、浄円らの父寂心が1288年(正応1)に生まれて1346年(貞和2)に没したことが分かる。その父寂証の生年は13世紀半ばと推定できるため、尼浄円に連なる水橋門徒は13世紀半ばには存在していたと考えられる。寂証は1289年ごろ水橋から越後頸城郡マナコ(現上越市真砂)に移住したという説もある(松野純考『親鸞』)。寂心の子寂円に嫁した柿崎の教浄は後に柿崎に帰り、寂円も柿崎に移る。1360年(延文5)3月16日に寂心の妻寂蓮、4月2日に浄円の夫光念が没したため、翌3日に教浄が、浄円の所持していた本尊軸を持参して存覚に謁見した。

 
 

玉永寺の歴史

1545(天文14)守護代から宝寿に(禁止事項を公示した文書)制札下る。
1554(天文23)寺地寄進を受ける。この資料に「玉永寺」が初見
1560(永禄3)上杉謙信の制札下る。
このころは戦乱がなく,一向宗の勢力拡大の時期であった。
1565(永禄8)本願寺顕如と武田信玄が盟約を結び一揆勢は上杉方と交戦。
1570(元亀元)本願寺と織田信長の石山合戦 玉永寺長男覚順が参戦。
1580(天正8)本願寺、信長と和睦。石山本願寺焼失。長男教如退出。
1597(慶長2)覚順,教如方に与し小出玉永寺を分立。
1602(慶長7)教如、家康より寺地を寄進される。東西分立。

玉永寺

 富山市水橋小出町(真宗大谷派)と同市水橋西大町(浄土真宗本願寺派)にある寺院。山号は石川山。本尊は阿弥陀如来。1469(文明1)に宝寿によって開基という。1545年(天文14)11月に守護代神保長職が宝寿に制礼を下したところから、この宝寿を開基としたと考えられる。54年に<市田郷之内中野>に寺地寄進を受け、60年(永禄3)3月、初めて越中へ進行した上杉謙信は新川郡太田上郷(現富山市)道場への制札を下している。本願寺の東西分立の影響を受け、4代順勝、その次男教順は本願寺派、、長男覚順は大谷派に与して分立した。

山

米騒動

 1918(大正7)本県から全国に波及した米価値下げ・廉売要求の民衆暴動。3ヶ月にわたり、大都市を中心に1道3府32県で70万人が参加。一部で軍隊も出動し、全国で8185人が検挙、2652人が懲役刑となった。第1次世界大戦の影響で諸物価の高騰は著しく、特に米価は16年の後半から上昇、18年3月以降は前年比で2倍以上となっていた。一時落ち着いたものの,シベリア出兵内定で買い占め・売り惜しみが広まり、米価は7月中旬からさらに急騰した。

本県で暴動が本格化するのは8月3日夜からだが、7月には小規模・分散的な動きが発生する。上旬、東水橋町の女仲仕たちが米穀店に米の移出停止を迫って交渉。8月3日午後8時半ごろ、西水橋町の主婦ら150人が有力者宅や米穀店に押し掛け,移出反対や廉売を訴えた。集団は警察によって解散させられたが、西水橋の騒動は4日東水橋町に移ったほか,泊町(現朝日町),生地町(現黒部市),四方町(現富山市)にも飛び火。5日には横山村(現入善町)・滑川町などにも拡大した。

米価対策に有効な手を打てず、事件の報道を一時禁止した寺内正毅内閣を各新聞はいっせいに批判し、内閣は9月21日総辞職、<平民宰相>原敬による初の<政党内閣>が誕生した。

以上「富山大百科事典」北日本新聞社より抜粋


一九一八年、米騒動起こりますね。米騒動を日本で最初にやったのはご承知のように魚津の漁師のおかみさんたちが中心になったのです。

絶対君主制である天皇制のもとにあって、反権力闘争というふうに位置づけていい米騒動・米よこせ運動をやった。それをやったのが越中の人、しかも大部分は真宗のご門徒ですよ。それは「正信偈」で育てられた人たちですよ。

それは、あの長い徳川幕藩体制の中で東西分派までさせられて、もう完全に骨抜きになったはずの真宗のご門徒が、大正七年の米騒動の先頭に立った。それは、その人たちが勝手にやったのであって、真宗とは何も関係ないんだとはいえませんよ。やはり、「お正信偈」に育てられた真宗人として米騒動をやったという点に目を注いでみます時、事を確かめていかなければならない問題が残るのではないでしょうか。

しかもこの米よこせ運動というのは、越中で一番大きく事が始まったといわれておりますけれども、日本全国へ大変な勢いで広がっていって、ことによったら当時の政府が、転覆させられるような力にまでなりかかった。その中でずいぶん多くの被差別民衆が力を出したのです。

そして京都の方で申しますと、捕まって厳しい処罰を受けたのは、ほとんど全部といっていい程、被差別民衆の人たちだったのです。そして、それはまた全部真宗のご門徒です。「お正信偈」で育てられてきた人たちです。

そうすると差別する側、差別される側を越えて、米よこせ運動という闘争に立ち上がった。そしてそれが真宗のご門徒だったということは、偶然なんでしょうか。私はこれは偶然とは思えないのです。
ほかの人も米がなくて困っていた。米がなくては食えないのですから。食えなければ子供が飢え死にしていくんですから。そういう状態の時に、子どもを飢え死にさせられないといえる人たちが人間なのです。本当は。それをいい切れないのが、人間を疎外された状況というのではないのですか。

いわゆる魚津の米騒動。あの戦いがやがて全国に広がっていく。その魚津の漁師の女将さんたちが中心であったといわれますが、その女将さんたちも真宗のご門徒であったわけでしょう。それは一揆を恐れて完全に東西に分派させられ、それに先立って顕如、教如のもとに形成された強力な本願寺軍団が、天下を統治しようとする織田信長に対抗しようとして檄を飛ばす。その法主の前の法主ですね。顕如の父にあたる証如に権僧正という位が与えられるわけです。そして勅願寺となっていくわけです。見事にそこでは政治の動き方との駆け引きが行われて、それでも収まらなくてついに石山合戦という形の一揆へ進んでいき、それも結局は勅許のもとに和ぼくをする形で、本当は灰になるはずだったのですが、たまたま織田信長が本能寺で殺されたため助かったという終結の仕方をしていくわけです。それがなぜあの米よこせの戦いに、年を隔てて、越中の一揆の命がなお枯れずにありえたのか。それが全国に広がっていって、やがて被差別の状態で真宗門徒である人々がそれに積極的に参加して多くの人が投獄される状態になっていく。そういうことがあるのですが、私はそうい うこと全体の根っこに蓮如のことを考えずにはいられないのです。

廣瀬杲講述「『正信偈』以前」より抜粋