疎開

疎開

一年A組  石川 慧 2002年 8月21日

現在、上条小学校は東京の大間窪小学校(現 品川区立豊葉の杜学園)と姉妹校になっています。その歴史を、祖母に聞きました。

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(写真は当時の疎開児童たち。 前列の黒っぽい服の人が雷久保巌先生。後列の黒っぽい服を着ているのが僕の曾祖母 石川瑠璃子)

昭和19年8月、玉永寺に大間窪国民学校(現・大間窪小学校)から雷久保巌先生と小学生51人がこられた。地元から寮母さんと作業員さんがそれぞれ2人づつお世話に加わった。寺の坊守である僕の曾祖母も寮母となった。その時、曾祖母は24歳、祖母は4歳だった。

こどもたちは寺から学校へ通った。寺のどの部屋も一杯になり、洗濯もままならず、さらにはノミやシラミが出るようになった。暑い中一人一人にDDTをかけ、ノミやシラミを駆除した。

 夜は蚊帳を吊って寝たが家族に会えない寂しさにしくしく泣いた子もいた。

 食べ物が少ないので、ご門徒の家へ荷車を引いて野菜や米をもらいに行った。

 6年生の子供と舟橋駅までの2㎞を歩き、電車に乗って町へ買い出しに行った。それでも米、豆、サツマイモを一緒に炊いた代用食ばかりだった。曾祖母の日記には「米6大豆4、米7と大豆3」と書いてあったものがあり、少しでも米を炊いて、お腹一杯食べさせたいと思っていたのだと思う。

富山にたくさん雪が降った時、子供たちは本堂の裏の屋根からスキーをした、楽しい思い出もあるようだ。

通学にはわらで編んだふかぐつをはいていった。学校に着く頃にはびしょびしょにぬれていた。それが凍り付き、学校からそのままはいて帰って、夜にいろりのまわりに干した。なかなか乾かなかった。乾かないまま次の日も同じものをはいていく。霜焼けになり入院しなければならない子供も出た。祖母の手にも霜焼けの跡がある。

 しかし、疎開中は悲しいことばかりではなかった。テレビもない時代にみんなで劇を考え、発表会を楽しんだこともあった。

 曾祖母は、自分で書いたお経の本と珠数をこどもたちに渡し、一緒に本堂でお参りをしたそうだ。疎開に来ていたひとに、お経の本と珠数を宝物にしているという方もおられたそうだ。

 昭和20年3月には、6年生が卒業のために帰り、今度は1,2年生およそ20人と伊藤園子先生がこられた。

毎日の生活は、夜になると米軍の飛行機が来るから灯りをつけてはならないので、電気の傘に黒い布をかぶせ(灯火管制)、夜は電気を消して休んだ。

昭和20年8月1日の夜、富山の町が焼け野原になった。その夜、綿の入った防空頭巾を頭にかぶり、後ろからひもをまわし、あごの下でしっかりと縛り、道に一列に並んだ。ブーン、ゴオオーと飛行機が低く飛び、町の方がとても明るくなった。赤や緑、黄色の光っているものが次々と落とされる様子が昼のように明るく見えた。パチパチと火花の音がなった。落ちるたびに大きく火が燃え上がり、みんな道に伏せた。

富山の町が近くに見えた。アメリカのB29が焼い弾を落としたのだ。たくさんの家が燃え、人々の尊いいのちが消えた。焼け出された人も疎開に来た。

昭和20年8月、曾祖父がパラオ島で戦死した。曾祖母は過労で肋膜を患い、実家で療養することになった。そのため、皆さんがいつ帰られたかは知らなかった。

戦争が終わり、小学生が大学生になった頃から、寺に遊びに来てくださるようになった。曾祖母は昭和58年1月1日63歳で亡くなった。葬儀などにも疎開していた人がお参りしてくださった。2年前に伊藤先生も来られた。

こうして玉永寺を訪ねてきた疎開児童の方と共に、亡き雷久保巌先生の法要と、地区同級会が開かれて、大間久保小学校との交流が始まった。

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 祖母の話を聞いて、僕の知らなかった歴史を知って驚きました。

テロやインドとパキスタン問題など、今でも戦争が起こっています。僕はこれからの世界に戦争が起きないように願っています。