法然と親鸞 その2
先日、池田勇諦さんの秋安居を拝聴して、いろいろ刺激を受けました。証巻についての講義でした。
教行信証においては、「必至滅度の願」、第十一願が「証」の根拠として示されています。証巻に取り上げられているのは、いわゆる「往生」ではなくて、「住正定聚」であり、「必至滅度」なんです。「住正定聚」も「必至滅度」も、どちらも「成仏」ということを念頭に置いた言葉です。
親鸞は教・行・信・証の根拠ををそれぞれ、大経の願文に尋ねて示しています。証を第十一願に尋ねることによって、当時の日本浄土教にはなかった要素が生まれました。法然では臨終往生の色合いが強かった念仏の証果を、親鸞は成仏へと至る道程として表現したということです。往生とは歩み続けること。
浄土教は寓宗、添え物にしかすぎないという蔑視の中で、法然が善悪の凡夫を救う「浄土宗(真宗)」こそ本当の大乗仏教であるという名乗りを上げたことが「法難」の引き金になりました。親鸞に教行信証を書かせた動機はこの法難であったという考え方を、池田先生もされていました。
親鸞の第十一願への注目は、曇鸞の論註、三願的証の流れを汲んでいます。「親鸞」という名乗りは、法難の後であるという意見も思い起こされます。師、法然にはなかった要素に、親鸞は法難後に注目したのではないかということです。
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