信仰をもつということ

きのうはらくりんさんをお迎えしての研修会、今日は近くのお寺で一日、お話をしてきた。ほとんど家に居つけない感じだったが、やっと日程表が通常営業になったかんじだ。くたびれはてた。

 

このリアルブログに復帰して、やっとこさ一ヶ月が経った。とんでもなく忙しくて、1月がなかなか終わらなかった。1月が1年ぐらいに思えた、いや、マジです。ホンマに。

 

ここでブログを書いてきて、「ミリオンダラーベイビー」の安楽死についての感想が、こうも他の人と違っていることに少々、驚いた。いろいろ考えたが、結局のところ、私が信仰をもっているということが、こういう違いに出てくるのであろう。

 

わたしも原理主義ということの危険性は意識している。だから、教条的に命は大切だと主張するつもりもない。また仏教は自我への固執を課題にしているのだから、生命への固執ということも議論にできうる。

 

しかし、それだからこそ、臓器移植や安楽死など、生命に関わる問題には、無宗教の人よりも、敏感になってしまうのだろう。ならざるをえないのだろう。
劇中でも、キリスト者である設定のクリント・イーストウッドは、悩みに悩んでいた。

 

その意味では、こういう敏感さをもつことができているオレでいて、信仰をもっていて、よかったと、妙な意識をした事であった。

 

7月からは、少し余裕がでてくるかな。うれしい。

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